第四話 遊里
川に架かる小さな橋を渡ると、空気の色が変わった。軒先に吊るされた赤い提灯。格子の向こうから漏れる三味線の音。白粉と酒と、安物の香の匂い。黄泉沢の遊里は、谷底の町の中でここだけが、場違いなほど明るかった。
悲鳴の主は、すぐに見つかった。
遊女屋の並ぶ通りの真ん中で、少女が一人、地面に引き倒されていた。十三か、十四か。粗末な単衣の裾が乱れ、素足が泥にまみれている。逃げようとしたのだろう。片方の草履が、少し離れた溝のそばに転がっていた。
その少女の髪を、男が無造作に掴んでいた。大柄な男だった。上等な絹の小袖を着崩し、腰に朱鞘の刀を差している。月代は伸び放題で、顎の張った顔に、薄い笑みを貼りつけていた。
「お糸よ」
猫でも呼ぶような声だった。
「どこへ行くつもりだった。おめえの親父が借りた銭は、まだ一文も返っちゃいねえんだぜ」
「離して……! おとうのところへ帰る……!」
「帰る家なんざ、もうねえよ」
男が髪を引くと、少女の顔が仰け反った。提灯の灯りが、涙に濡れた頬を照らす。
男の背後には、遊女たちが五人、六人と並んで立っていた。みな一様に、口を固く結んでいる。そのうちの一人がわずかに唇を開いたとき、千早は息を呑んだ。
歯が、黒かった。
お歯黒だった。だがそれは、嫁いだ女が祝いの印にするものではない。並んだ遊女たちが、まるで揃いの焼き印のように、みな同じ黒い歯をしていた。
(この男の、持ち物だという印か)
通りには、ほかにも人がいた。客らしき男たち、物売り、酔っ払い。誰一人、止めようとしない。見て見ぬふりをして、足早に通り過ぎていく。
千早の右手が、刀の柄にかかっていた。いつの間にそうしていたのか、自分でも分からなかった。鯉口を切るのは、親指ひとつで足りる。抜けば、一太刀で届く距離だ。あの男の手首を、髪を掴んでいる指ごと――
(駄目だ)
千早は奥歯を噛んだ。ここで抜けば、目立つ。死合いの前に騒ぎを起こせば、名乗りを上げる前に、城の者に目をつけられる。素性を探られれば、晒の下の身体も、偽りの名も、すぐに剥がされるだろう。そうなれば、蓮丸には二度と近づけない。
五年。五年かけて、ここまで来たのだ。
指先が震えた。千早は心の中で数を数えた。
――ひと息、ふた息。
灰が落ちるまでの長さ。だが今夜ばかりは、いくら数えても、心は凪がなかった。
男が、ふとこちらを見た。目が合った。
「なんだ、若いの」
男は少女の髪を掴んだまま、面白そうに千早を眺めた。
「見物か。それとも、この娘を買いてえのか。こいつはまだ客を取らせちゃいねえが、銭次第じゃ考えてやってもいいぜ」
背後で遊女の一人が、小さく息を詰める音がした。
千早は黙ったまま、柄から手を離し、腕を下ろした。
男は鼻で笑った。
「腰抜けか。死合いの見物に来た口だな。せいぜい、いい席で見るこった」
男が顎をしゃくると、店の奥から若い衆が二人出てきて、少女の両腕を取った。少女はもう、抗わなかった。ただ、引きずられていく間際に、一度だけ振り返った。
濡れた目が、まっすぐに千早を見た。責めるでもなく、すがるでもない。ただ、見ていた。
格子戸が閉まり、通りには三味線の音だけが戻ってきた。
千早は長いあいだ、その場に立ち尽くしていた。
動けなかった。
いや――動かなかったのだ。自分で選んで。
その違いが、喉の奥に刺さった小骨のように、いつまでも抜けなかった。
やがて千早は踵を返し、遊里の灯りに背を向けて歩き出した。宿を探さねばならない。刀の研ぎも頼まねばならない。明日は、迎え火だ。
川を渡る小橋の上で、千早はもう一度だけ振り返った。赤い提灯の列の向こう。闇の深い町外れのほうから、琵琶の音がひとつ、低く響いてきた。
弦をはじく音は一度きりで、すぐに夜の中へ吸い込まれて消えた。




