第三話 黄泉沢
日が谷の縁に隠れると、黄泉沢はたちまち薄暗くなった。谷底の町には、夕暮れが他所より一刻早く来る。
橋を渡りきった千早は、川沿いの細い道を町へ下った。まず鼻についたのは、やはり硫黄だった。町の空気そのものが、腐った卵のような匂いを薄く帯びている。行き交う人々はもう慣れきっているのか、誰も顔をしかめない。代わりに、誰もが少しうつむいて歩いていた。
千早は鼻を利かせ、橋の上で嗅いだあの香りを、もう一度探した。だが谷底の風は渦を巻いていて、匂いはどこから来たのかも分からないまま、硫黄の中に溶けて消えていた。
(気のせいではない)
自分にそう言い聞かせて、千早は歩みを進めた。
町の中ほどに差しかかったとき、坑口のほうから声が上がった。
「どけ、どけ!」
戸板を担いだ男たちが、四人がかりで駆け下りてくる。戸板の上には、坑夫が一人、仰向けに横たえられていた。顔が、土気色を通り越して紫がかっている。口の端に泡がこびりつき、胸がかすかに上下しているのが、かろうじて生きている証だった。
「また毒気か」
「三番坑だとよ。今月で何人目だ」
道端の男たちが、声を潜めて言い交わす。戸板の後ろを、女が一人、裸足で追いかけていた。坑夫の女房だろう。髪を振り乱し、声も出せずに泣いている。
千早は道の脇に寄り、戸板が通り過ぎるのを見送った。紫の唇。浅い息。指先のこわばり。
――あれは、深い坑に溜まる毒気だ。
父が生きていれば、坑口から立つ煙の流れを一目見ただけで、どこに毒気が溜まっているか言い当てただろう。千早の家は、表向きは香を扱う家だった。だが父は時折、山師に請われて山へ入り、坑道で香を焚いた。そして、その煙の流れから、毒気や崩落の兆しを読んでいた。
山の香守。
その技が、一族を滅ぼした。
千早は戸板から目を逸らし、町の辻に立つ高札の前で足を止めた。真新しい板に、墨痕も鮮やかに文字が躍っている。
――来る七月十三日、迎え火の宵より、黄泉沢にて死合いを催す。
――腕に覚えある者、身分を問わず名乗り出るべし。
――最後に立ちたる者に、賞金ならびに当家の家督を譲るものなり。
――黄泉沢城主 穂刈刑部
穂刈刑部。その名を目でなぞったとき、千早の胸の奥で、冷たいものが身じろぎした。
高札の前には、千早のほかにも何人か、刀を差した男たちが立っていた。顔に古傷のある者。昼間から酒の匂いをさせている者。見慣れない、異国の装束の者までいる。誰もが互いを値踏みするように、ちらちらと横目を使っていた。
(家督を譲る、か)
千早は胸の内で笑った。あの男が、自分の城を他人に譲るはずがない。この死合いには、何か裏がある。だが、それでいい。裏があろうとなかろうと、勝ち進めば、あの男の懐に近づける。そして、あの城の奥へ。
高札の向こう、川を渡った先の、灯りの多い一角から、女の悲鳴が上がった。甲高く、切羽詰まった、まだ幼さの残る声だった。
高札の前の男たちが、一斉にそちらを見た。そして、一斉に目を逸らした。
千早だけが、目を逸らさなかった。




