第二話 吊り橋
七月十二日、申の刻。谷を渡る風は乾いていて、晩夏の陽はまだ高かった。
千早は崖の縁に立ち、足もとの吊り橋を見下ろした。蔓と藤で編まれた橋は、谷底からの風を受けて、ゆっくりと呼吸するように揺れている。対岸までおよそ三十間。下を覗けば、白く泡立つ谷川が、細い糸のように光っていた。
橋のたもとには小屋がひとつ。男が二人、筒の長い火縄銃を膝に載せて座っている。火縄の先から、細い煙が立ちのぼっていた。
千早は無意識に、その煙を目で追った。まっすぐ上へ伸び、崖の縁を越えたあたりで、谷のほうへ吸い込まれるように折れる。風は、谷へ向かって吹いている。
「どこから来た」
年かさのほうの男が、顔も上げずに言った。
「甲府から」
千早は低く、短く答えた。喉の奥で声を潰す癖は、五年かけて身につけたものだ。男として見られることには、もう慣れていた。歩幅も、座り方も、目の伏せ方も、今では身体のほうが先に覚えている。
「名は」
「千之助」
「死合いに出るのか」
「そのつもりで来た」
男はようやく顔を上げ、千早の顔をじろりと眺めた。
「若えな。それに細い。悪いことは言わねえ、引き返しな」
「それがしの勝手だ」
男は鼻で笑い、もう一人と目を見交わした。
「入るのは勝手だ。だがな、出るときは不寝の城の許しが要る。覚えとけ」
千早は答えず、橋板に足をかけた。
一歩目で、橋は大きくたわんだ。二歩目で、風が下から吹き上げ、袴の裾をはためかせた。千早は欄干代わりの蔓を握り、目を閉じかけて――やめた。代わりに、心の中で数を数え始める。
――ひと息、ふた息。
線香を一本焚き終えるまでの時を、一炷という。幼い頃、母の膝の上で、燃えてゆく線香を見つめながら覚えた数え方だ。灰が落ちるまでの長さを、身体で測る。そうしていると、不思議と心が凪いだ。
橋の上からは、谷底の町がよく見えた。両側から迫る崖に挟まれて、細長い町が川沿いに張りついている。板葺きの屋根が肩を寄せ合い、ところどころから竈の煙が上がっていた。町の奥、谷がいちばん狭まるあたりには、黒々とした坑口がいくつも口を開けている。その上の尾根に、小さな山城が、町を見下ろすように建っていた。橋番が不寝の城と呼んだのは、あれだろう。
黄泉沢。
誰がつけた名か知らないが、上から見下ろすと、なるほど、地の底へ続く道の入り口のようだった。
あの城のどこかに、蓮丸がいる。
五年前、炎の中で最後に聞いた弟の泣き声が、耳の奥でかすかに鳴った。千早は奥歯を噛みしめ、それを数の中に沈めた。
――十、十一。
橋の中ほどまで来たとき、谷底から吹き上げる風に、ある匂いが混じった。千早は足を止めた。
硫黄の匂いがする。金山の坑道から湧く毒気だと、麓の村で聞いていた。だが、それだけではなかった。硫黄の底に、もうひとつ。甘く、重く、それでいてどこか冷たい匂いが、細く、確かに漂っていた。白檀に沈香を合わせ、そこへほんのわずかに丁子を落とした香り。
千早の指が、蔓を握ったまま白くなった。
間違えるはずがなかった。
それは、五年前に焼け落ちた家の――
香の匂いだった。




