第一話 峠の茶屋
七月十二日、未の刻。峠の茶屋は、蝉の声に埋もれていた。
葦簀の影に置かれた床几に、旅姿の若侍がひとり腰を下ろし、欠けた茶碗の麦湯をすすっていた。ぬるい。だが、半日歩き通した喉には、それでも甘かった。
軒先では、竈の煙が細く斜めに流れている。若侍は無意識に、その煙の行方を目で追った。峠を越える風は、西から東へ。この先の谷へ向かって、吹き下ろしている。
「お侍さま、お代わりは」
声をかけてきたのは、茶屋の娘だった。十六、七か。日に焼けた頬に、そばかすが散っている。
「いや、いい」
若侍は短く答えた。低く、喉の奥で押し潰したような声だった。髪は男髷。胸には晒。腰には一本差し。誰が見ても、旅の若侍にしか見えないはずだった。
娘は小さく頭を下げ、奥の床几へ盆を運んでいった。
そこに、先客がいた。大柄な老人だった。白髪混じりの総髪を後ろで束ね、仕立てのいい羽織を着ている。腰の大刀は、黒漆に金の金具を散らした、見事な拵えだった。床几の脇には、空の徳利が三本、転がっている。
「おう、娘。酌をせい」
老人は濁った声で言い、盆を置いた娘の手首を掴んだ。
「あ……あの、お客さま」
「なんだ、知らぬのか。わしは鬼塚弾正。三十人斬りの鬼塚よ」
老人は胸を反らし、茶屋じゅうに響く声で言った。
「これより黄泉沢へ下り、死合いで天下に名を上げる。その前祝いだ。光栄に思え」
「離してください……」
娘が身をよじっても、老人の手は離れない。奥から茶屋の老婆が出てきたが、腰の刀を見て、その場に立ちすくんだ。峠の道を行く人足たちも、ちらりと見ただけで、足早に通り過ぎていく。
若侍が、茶碗を置いた。
「その手を、離されよ」
老人が、振り返った。酒に濁った目が、若侍の頭から足先までを眺め回す。
「なんだ、小僧」
「離されよ、と申した」
「わしを誰だと思うておる。三十人を斬った、鬼塚弾正であるぞ」
「それがしは、それを知らぬ」
老人の顔が、みるみる赤黒く染まった。娘の手首を突き放し、床几を蹴って立ち上がる。
「ならば、三十一人目にしてくれるわ!」
老人の右手が、大刀の柄にかかった。鍔元にしがみつくような、力みきった握りだった。
だが――
鯉口が切られるより先に、若侍の手が動いていた。刀は抜かない。腰から鞘ごと引き抜き、その鐺で、老人の手首を下から鋭く打ち上げる。
乾いた音がした。老人の指が柄から弾け飛び、半ばまで抜けかけていた大刀が鞘から滑り出て、地面に転がった。
蝉の声だけが、残った。
若侍は鞘を腰に戻し、足もとの大刀を見下ろした。日の光を受けて、刀身が白く光っている。曇りひとつない。刃こぼれも、血の曇りも、研ぎ減りすらない。まるで、鍛えられたその日から、一度も人に向けられたことがないかのような――
(三十人斬り、か)
若侍は、何も言わなかった。
老人は手首を押さえ、真っ赤な顔で若侍を睨みつけていた。だが、その目の奥に浮かんでいるのは、怒りよりも、むしろ怯えだった。
「お、覚えておれ、小僧……!」
老人は大刀をひったくるように拾い上げ、鞘に納めるのにも手間取りながら、峠の下り道へ転がるように去っていった。
その背中が見えなくなってから、娘がようやく、震える声を出した。
「あ……ありがとうございました」
「怪我は」
「いえ……」
娘は、掴まれていた手首をさすりながら、若侍の顔を見上げた。そして、ほんの少し首を傾げた。まるで、何かに気づきかけたように。
若侍は目を逸らし、床几に銭を置いた。
「馳走になった」
立ち去ろうとしたとき、それまで黙っていた老婆が、若侍の背に声をかけた。
「お侍さまも、谷へ行きなさるのかね」
「ああ」
「悪いことは申しません。おやめなされ」
老婆は、峠の向こうへ目をやった。山と山の間が深く落ち込み、その底から、薄い煙がいく筋も立ちのぼっている。
「あの谷はね、入る者はあっても、出てくる者が少ないのですよ」
老婆の声は、蝉の声に半ば消されていた。
「今年の盆は、迎え火は焚けても、送り火まで焚けるかどうか」
若侍は、振り返らなかった。峠の道を、谷へ向かって下り始める。風が、背中を押していた。
峠を下りきったところで、若侍は一度だけ足を止め、胸元にそっと手を当てた。幾重にも巻いた晒の下で、心の臓が早鐘を打っている。
――大丈夫。まだ、誰にも気づかれていない。
若侍の名は、千早といった。




