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炎の夜

熱かった。


目を開けても、何も見えなかった。煙が、天井から床まで、白く、重く、垂れ込めている。その向こうで、梁が燃えていた。ばちばちと爆ぜる音。どこかで、何かが崩れ落ちる音。


「千早、蓮を!」


母の声だった。煙の奥の、どこか遠くから。


「蓮を連れて、逃げなさい!」


右の手を、握りしめた。そこに、小さな手があった。十になったばかりの弟の、細い、温かい手。


「れん」


声を出すと、喉が焼けた。


「れん、離しちゃだめ」


小さな手が、握り返してきた。


走った。煙の中を、低く、低く。父に教わったとおりに。肩を揺らさず、腰から先に足を送る。煙は上に溜まる。床に近いところに、まだ息のできる空気がある。


廊下の角を曲がったところで、前から、熱い風が吹きつけた。


天井が、落ちてきた。


燃える梁と、瓦と、火の粉が、目の前に降り注いだ。身を投げ出すように、後ろへ跳んだ。


跳んだ拍子に、握っていた手が、ほどけた。


「れん!」


掴み直そうとした。煙が、目を焼いた。何も見えなかった。伸ばした指の先を、小さな指が一度だけかすめて、消えた。


「れん――」


煙の向こうで、弟の泣き声がした。それが、遠ざかっていく。誰かに抱えられて、運ばれていくように。


追おうとした。足が、炎に阻まれた。


崩れた梁の向こうから、甘く、重く、それでいてどこか冷たい匂いが流れてきた。父が、奥の間で香を焚いたのだ。決して開けてはならないと言われていた、あの香の間で。


煙の中に、膝をついた。


右の手のひらに、まだ、弟の手の温かさが残っていた。


――五年前の、夏の夜のことだった。

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