第二十七話 黒い影
辰五郎は、戸板に乗せられて運ばれていった。
戸板の片端を担いでいるのは、研ぎ場の与平だった。腰の曲がった老人が、誰よりも先に人垣を割って飛び出し、町の男たちに声をかけて戸板を運ばせたのだ。その脇を、太一が泣きながら走っていた。
戸板が通り過ぎるとき、千早は、晒で何重にも巻かれた辰五郎の右の肩口を見た。その下にあるはずのものが、ない。
意識は、もう失われかけていた。それでも、唇だけが、まだ動いていた。
――いと。
戸板は、遊里の方角へ運ばれていった。遊女屋の二階の簾が、細く開いているのが見えた。お紺が、人を呼んでいるのだろう。
柳の木陰で、膝の上の拳を握りしめていた。手のひらに、爪が食い込んでいた。
隣の小太郎は、長いあいだ黙っていた。やがて、ぽつりと言った。
「……兄貴。あの若様、本物だぜ」
いつもの軽さが、どこにもない声だった。
「腕もだけどよ。あいつ、斬る前も、斬った後も、目の色ひとつ変わらなかった」
千早の唇は、固く結ばれたままだった。
いつの間にか、谷風が戻ってきていた。柳の葉が、かすかに揺れている。
申の刻、主膳が次の死合いを告げた。
「初太刀の段、四番! 修験の不動坊――対するは、影次!」
法螺貝の音とともに、修験者が進み出た。額の護符。左の腕には、昨夜自分で突いた傷の晒がまだ巻かれている。それでも修験者は、胸を張り、口の中で経を唱えていた。
向かい合ったのは、黒い影だった。黒の小袖。黒の袴。表情のない顔。
線香に火が点き、煙がゆるく東へ倒れた。風のある日の灰は、早い。ほどなく、白い一片が落ちた。
修験者が、経を唱えながら突進した。
黒い男は、ほとんど動かなかった。半歩だけ、横へずれた。すれ違いざま、刀が一度だけ鞘から出て、また戻った。それだけだった。
修験者の右の前腕に、細い赤い線が浮かんでいた。
「勝負あり! 影次の勝ち!」
「通ってはおらぬ!」
修験者が、腕を突き上げて叫んだ。
「血は出ておる! だが、刃は通ってはおらぬ! 護符ある限り――」
群れから、引きつったような笑いが漏れた。さっきの惨劇のあとでは、その笑いさえどこか乾いていた。
黒い男は、修験者には目もくれなかった。刀を納めたまま、ただ一点を見ていた。
桟敷だった。
刑部の座る、その場所だけを、黒い男の目は、名乗りの夜と同じように、じっと見据えていた。
その視線の先を追った。刑部は、気づいているのかいないのか、扇で顔を扇いでいるだけだった。
(あの男は、何者だ)
問いは、答えのないまま、胸の底に沈んだ。
陽が、谷の縁に傾き始めていた。河原に、長い影が伸びていく。
主膳が、最後の札を掲げた。
「初太刀の段、五番! 三十人斬りの鬼塚弾正――対するは、琵琶法師!」
群れが、ざわめいた。
人垣の向こうで、大柄な老人の顔が、篝火の準備を待つ夕暮れの中で、見る見る青ざめていくのが見えた。
そして、河原の外れから、ひとりの男が歩み出てきた。
墨染めの衣。剃り上げた頭。背に琵琶はない。代わりに、腰に一振りの刀を差している。鞘は割れ、柄糸はほつれ、鍔は錆で赤茶けた、あの刀だった。
杖は、ついていなかった。誰の手も借りていなかった。
閉じた瞼のまま、人垣の割れた道を、まっすぐに歩いていく。一度も、足もとを確かめることなく。
その後ろ姿から、目が離せなかった。
盲目の法師は、迷いのない足取りで、青磁の香炉の前まで進み、ぴたりと止まった。
まるで、そこに置かれる一本の線香の、まだ点いてもいない火の音が、もう聞こえているかのように。




