第二十八話 闇の河原
日が傾いたことは、肌で分かった。
頬に当たっていた熱が、いつの間にか薄れている。空のどこかに雲がかかったのだろう。陽の重みが、肩から少しずつ剥がれていく。代わりに、河原の土が昼のあいだに溜め込んだ熱が、足の裏からじわりと這い上がってきた。
無量は、青磁の香炉の前に立っていた。
目は、閉じている。開けたところで、何も変わらない。五年前のあの夜から、無量の世界には、光というものがなかった。
代わりに、音があった。
蝉が鳴いている。昼の盛りよりも、声が細い。夕暮れが近いのだ。その蝉の声の下に、人垣のざわめきが、波のように寄せては返している。数百の息。数百の衣擦れ。数百の足が、乾いた砂利を踏む音。
河原の向こう、高いところで、ちりちりと小さな音がしていた。火縄が燃える音だ。一本、二本、三本……櫓の上に、六本。焦げた縄の匂いが、風に乗ってかすかに届く。
正面、三間先から、荒い息遣いが聞こえていた。
鬼塚弾正の息だった。
速く、浅い。喉の奥で、何度も唾を呑み込む音がする。酒の匂いがした。昼から飲んでいたのだろう。その匂いの底に、冷えた汗の匂いが混じっていた。恐怖の汗は、暑さの汗とは匂いが違う。
そして、ときおり、小さな金属の音がした。かちり、かちり。鍔が、鞘の口に当たって鳴る音。柄を握る手が、震えているのだ。
――三十人斬り、か。
胸の内で小さく息をついた。この男は、人を斬ったことがない。斬ったことのある者の手は、こんなふうには鳴らない。
桟敷のほうから、扇の音がした。ゆったりとした、規則正しい音。刑部だ。その音を、無量はよく知っていた。
扇の音のすぐ脇に、もう一つ、ほとんど聞こえないほどの息があった。若い、静かな息。昼のあいだ、人の腕を断った息とは思えないほど、落ち着いていた。
その息から意識を逸らした。今は、そちらを聴いてはならなかった。
衣擦れの音が、近づいてきた。
絹の音だった。重い打掛が、砂利の上を静かに滑ってくる。そして、匂いが来た。
白檀。沈香。ほんのわずかな、丁子。
無量の閉じた瞼の裏が、焼けるように疼いた。
この匂いを嗅ぐたびに、そうなる。痛みはとうに引いているはずの瞼が、あの夜と同じ熱を思い出す。炎の音。崩れる梁の音。そして、煙。喉を焼き、目を焼いた、甘く重い煙。
奥歯を噛んだ。顔には、何も出さなかった。
打掛の女が、香炉の前で膝をつく気配がした。懐紙を開く、乾いた音。線香を灰に差し込む、さくりという微かな手応えのような音。
そのとき、無量の耳が、人垣の中の一つの息を捉えた。
昨夜、名乗りの河原で聞いた息だった。
吊られた闇の上で、群れの中からただ一つ、自分を見ていた息。浅く、静かで、何かを必死に堪えている息。今も、それは人垣の中にいた。そして、今は――香炉のほうへ、まっすぐに向けられていた。
火打ちの音がした。付け木に、火が移る。
線香の先に、火が触れた。
ごく小さな、ぱち、という音が、無量の耳にだけ届いた。




