第二十五話 無風
桟敷の下では、総髪の絵師が、猛然と筆を走らせていた。髷を落とされた鉄漿丸の背中を、何枚も描き散らしている。その向こうでは、奉行の主膳が、扇の陰から千早の顔をじっと眺めていた。脂の浮いた丸顔に、妙な笑みが張りついている。
その視線を、背中で受け流した。控えの小屋へは戻らなかった。人垣の後ろに回り、河原の端の、柳の木陰に身を寄せる。
今日の死合いは、まだ残っている。そして、その中に、あの子の名がある。
河原の反対側の筵の上に、赤茶けた髪の男が座っていた。南蛮のガルシアだった。左の頬に、血の滲んだ晒を当てている。細い剣を膝に横たえ、目を閉じて、何かを小さく唱えていた。異国の祈りの言葉だった。
「よう、兄貴!」
明るい声とともに、誰かが千早の隣に滑り込んできた。日に焼けた顔。人懐っこい笑み。肩に担いだ短槍。小太郎だった。槍の穂先には、まだ乾ききっていない血が一筋残っている。
「さっきの抜き付け、ありゃあ何だ。俺、最前列で見てたのに、刀が鞘から出たとこも戻ったとこも見えなかったぜ」
「……誰が兄貴だ」
「兄貴は兄貴だろ。俺より強えんだから」
悪びれもしない笑い方だった。
「俺のほうも見てくれりゃよかったのによ。あの南蛮の箸みてえな剣、速えのなんの。こっちの穂先が届く前に、喉元まで来やがった。紙一重でかわして、頬をちょいと掠めてやったけどな」
小太郎の顎が、筵の上のガルシアのほうをしゃくった。
「いい腕だったぜ、あいつ。殺さずに済む段で、よかった」
小太郎の横顔を見た。軽口ばかりの若者だと思っていた。だが、その言葉には、相手への妙なまっすぐさがあった。
何も言わずに、河原へ目を戻した。小太郎は、勝手に隣に腰を下ろした。追い払う気力も、今はなかった。
未の刻が近づいていた。
陽が、真上から少し傾いた。そして、千早は気づいた。
風が、止んでいる。
午前のあいだ、途切れずに吹いていた谷風が、ぱたりと絶えていた。柳の葉が、一枚も揺れていない。河原の熱気が、地面から立ちのぼったまま、どこへも流れていかない。蝉の声だけが、重く、粘りつくように空気を満たしていた。
主膳が、扇を開いた。
「初太刀の段、三番! 金山の人足、辰五郎――対するは、殿の名代、蓮丸さま!」
河原が、どよめいた。
人垣が割れて、男がひとり、引き出されるように現れた。痩せた身体。擦り切れた野良着。両手に、坑夫の鶴嘴を握りしめている。刀を持たない辰五郎が、ただ一つ持ってきた得物だった。
群れのあちこちから、乾いた笑いが漏れた。だが、昨夜ほどの勢いはなかった。誰もが、この死合いの行く末を、もう分かっていた。
主膳が、辰五郎の鶴嘴を見て、甲高く付け加えた。
「人足、心得よ! 灰が落ちる前に、その鶴嘴を少しでも動かせば、櫓の鉄砲が撃つぞ!」
辰五郎が、小さく頷いた。その顔は、土気色だった。
桟敷の段を、少年が降りてきた。黒の小袖。腰の長短二本。音のない足取り。
千早の胸の奥で、何かが締めつけられた。
少年は、辰五郎と三間を隔てて立った。刀の柄には、まだ手を触れていない。ただ、そこに立っていた。何も映していない目で、鶴嘴を握る坑夫を眺めていた。
白い打掛の女が、青磁の香炉に線香を寝かせ、火を点けた。
細い煙が、立ちのぼった。
千早の胸が、ざわりと波立った。
煙は、どこへも倒れなかった。香炉の真上へ、糸を引くように、まっすぐ天へ昇っていく。
風が、ない。
この灰は、なかなか落ちない。




