第二十三話 半拍
風が、河原を撫でた。
灰が、落ちた。
音はなかった。白い一片が、香炉の縁をかすめて、台の上に崩れた。ただ、それだけだった。
その刹那、鉄漿丸の右手が消えた。
灰の落ちる刻は、千早には、落ちるより先に見えていた。千早なら、灰と同時に抜くこともできた。
だが、千早は待った。
半拍。
灰が台に落ちきるのを、目で見届けるだけの間。読めない者が、灰を見てから抜く間。
その半拍のあいだに、鉄漿丸の朱鞘から、白い刃が走り出ていた。
速い。
大柄な身体からは想像もつかない速さだった。鞘走りの音と、踏み込みの音が、一つに重なる。三間の間合いが、一息で消えた。刃が、千早の左の肩口から、斜めに斬り下ろされてくる。
千早は、刀を抜かなかった。
抜く代わりに、足を送った。肩を揺らさず、腰から先に。地を擦るように、音もなく。斬り下ろされる刃の内側へ、斜めに滑り込む。
刃風が、胸元を掠めた。
布が、裂ける音がした。
小袖の襟が、肩口から胸にかけて、ぱっくりと口を開けた。その下の晒の白さが、一瞬、真昼の光に覗いた。
千早の背筋を、氷が走った。
肌には、届いていない。だが、あと半寸深ければ。あと半拍、遅ければ。
鉄漿丸の目が、裂けた襟の奥に吸い寄せられた。その顔に、怪訝な色が浮かぶ。
胸をかばう構えのまま内へ潜れば、裂けるのは襟だけで済む。そして襟が裂ければ、男の目はそこへ落ちる。千早の足は、その目が落ちる先とは逆の、右脇へと運ばれていた。
その一瞬が、千早には十分だった。
鉄漿丸の右脇を、すり抜けていた。すれ違いざま、鯉口を切る。
鞘の中で、刃が走った。
一閃は、斜め上へ。後頭部を、低く掠めて。
手応えは、ほとんどなかった。
鉄漿丸の背後二間のところで、足を止めた。
振り返らない。
刃を返し、鞘の口に切っ先を当てる。そのまま、静かに納めていく。
鍔が鞘に触れる、小さな音がした。
鉄漿丸は、袈裟に斬り下ろした姿勢のまま、動かなかった。刀を握った手が、わずかに震えている。
河原は、しんとしていた。人垣の誰も、何が起きたのか分かっていないようだった。
鉄漿丸の背後で、千早の刀が、鞘に戻りきっていた。




