第二十一話 控え
七月十四日、巳の刻。谷の底に、真昼前の陽が容赦なく照りつけていた。
河原の外れに、筵を張っただけの控えの小屋がある。その日の死合いを待つ者は、名を呼ばれるまでそこで待たされた。日陰とは名ばかりで、筵の隙間から差し込む光が、土の上にまだらな模様を落としている。蝉の声が、耳の奥まで押し寄せてくるようだった。
千早は、小屋の隅で膝を立てて座っていた。
胸の晒が、汗を吸って重い。巻き直してから二刻と経っていないのに、もう肌に貼りついている。息を深く吸おうとするたびに、布が肋を締めつけた。
腰の刀に、手を置いた。与平の研いだ刃は、鞘の中でもその冴えが分かるような気がした。重みが、手のひらに落ち着く。
(鉄漿丸)
昨夜、河原で聞いた笑い声が、耳の奥に残っていた。刑部に次ぐ腕。逆らった女衒仲間を、三人まとめて斬ったという男。
初太刀の段だ。殺す必要はない。先に刃を入れれば、それで勝ちになる。
だが、それは向こうも同じだった。かすり傷ひとつで、千早は負ける。そして、もし刃が胸に入れば――
無意識に、胸元へ手がいった。
傷そのものは、恐ろしくない。恐ろしいのは、晒が裂けることだった。裂ければ、その下にあるものが、河原じゅうの目に晒される。
胸だけは、守らねばならない。
それから、もう一つ。
筵の隙間から、河原の中央を見た。大香炉の脇に、昨夜はなかった小さな台が据えられている。その上に、掌に収まるほどの青磁の香炉がひとつ。死合いの二人は、あの香炉を挟んで向かい合うのだろう。
その向こう、桟敷の上には、白い打掛の女の姿があった。
(あの女の前で、灰を読んではならない)
灰が落ちる瞬間を、千早は誰よりも正確に読める。だが、それを見せれば、あの女は気づくだろう。香を扱う者の手つきに、昨夜すでに目を細めた女だ。灰に吸いつく目まで見せれば、素性に辿り着かれるかもしれない。
読めても、読めないふりをする。灰が落ちてから、ほんのわずかに遅れて抜く。
胸を守る構えと、読みを隠す遅れ。二つの枷をはめたまま、刑部に次ぐ男と立ち合う。
乾いた唇を、舐めた。
河原の中央から、地鳴りのような歓声が上がった。
巳の刻の死合いだ。狐火の小太郎と、南蛮のガルシア。
歓声の中に、甲高い叫び声が混じった。誰かが斬られたのだ。どちらが斬られたのかは、筵の中からは分からなかった。続いて、主膳の甲高い声が、勝負ありを告げるのが聞こえた。
目を、閉じた。
殺さずともよい勝負。それでも、刃が肉に入る音は、ここまで届いてきた。
筵の入り口が、乱暴にめくられた。足軽が、顔をのぞかせた。
「千之助。出ませい」
黙って、立ち上がった。
小屋を出ると、真昼の光が目を射た。河原は、昨夜の倍ほどの人で埋まっていた。その人垣が割れて、一本の道ができている。道の先に、青磁の香炉の載った台があった。
そして、その台の向こうに、男がひとり、すでに立っていた。
大柄な身体。着崩した絹の小袖。腰の朱鞘。
千早を見ると、鉄漿丸は顎の張った顔いっぱいに、笑みを広げた。
「待ちかねたぜ、腰抜け」




