第十七話 仇
刑部は、大香炉の前で足を止めた。白い打掛の女が、線香の束を差し出す。刑部は、そこから二本を抜き取った。群れが、ざわめいた。
二本の線香を同時に迎え火へかざし、火を移す。そして、大香炉の灰の真ん中に、二本並べて突き立てた。
大と、小。腰の二本の刀と、同じように。
「穂刈刑部。この谷の主よ」
刑部の声は、張り上げてもいないのに、河原の隅々まで届いた。
「くじなど待たずともよい。大香炉に立つわしの香、この二本のどちらかでも折ってみせた者が、この谷の主となる」
河原は、静まり返った。誰も、動かなかった。誰も、息をする音さえ立てなかった。
千早の右手が、柄にかかっていた。
十間。刑部との間合いを、身体が勝手に測っていた。群れを抜けるのに三歩。地を蹴って五歩。鯉口を切り、抜き打ちに斬り上げる。
届く。今なら、届く。
五年前の夜が、瞼の裏で燃え上がった。崩れ落ちる屋敷。父の背中。母の悲鳴。
――焼け。一人残らず。
あの声の主が、十間先に立っている。刀を持つ手に、力がこもった。親指が、鍔にかかる。
千早の目の端で、何かが光った。河原の向こうの櫓の上。篝火を受けて、鉄の筒先がいくつも並んでいた。鉄砲衆だ。その筒先は、群れのほうを向いている。
そして、桟敷の上。刑部が降りたあとの空いた場所で、蓮丸が片膝をついたまま、こちらを見ていた。両の手は、二本の柄に添えられている。
千早が群れを飛び出せば、あの子が刑部の前に立ちはだかるだろう。そうなれば、刑部に届く前に、千早は弟を斬らねばならない。あるいは、弟に斬られねばならない。
指先から、力が抜けていった。それでも、まだ手は柄から離れなかった。離れたくなかった。
右手を見下ろした。柄を握る指の中で、小指だけが、かすかに冷えていた。湯殿で、お糸と絡めた指だった。細く、冷たく、小さな指。
――勝って、お前を、ここから出す。
自分の声が、耳の奥で響いた。ここで死ねば、あの約束は嘘になる。
ゆっくりと、柄から手を離した。一本ずつ、指をほどくようにして。
大香炉の前で、刑部が、群れを見渡していた。その目が、千早の上を通り過ぎていく。細い若侍が一人。それだけを見る目だった。刑部の目は、何にも留まらなかった。
やがて刑部は、退屈したように鼻を鳴らした。
「折る者は、おらぬか。まあ、よい。死合いは明日から始まる」
刑部は、桟敷へ戻りかけて――ふと、足を止めた。
「いや」
その顔が、河原の外れのほうへ向いた。迎え火の明かりがわずかに届く暗がりに、人影がひとつ、座り込んでいた。
「まだ、名乗っておらぬ者がおるな」




