第十六話 弟
辰五郎は、震える手で線香を受け取った。火を移すのに、三度しくじった。四度目にようやく火がつくと、辰五郎はそれを大香炉の灰に突き立て、逃げるように群れの中へ戻っていった。誰も、もう笑わなかった。
桟敷の手すりに片手を置いたまま、刑部は河原を見下ろしていた。
「さて」
その一言で、河原の空気がまた張りつめた。
「わしの名代を、立てておこう」
背後の暗がりへ、刑部が顎をしゃくった。
「蓮丸」
千早の心の臓が、跳ねた。
桟敷の奥から、ひとりの少年が歩み出てきた。十五、六。背は、千早とさほど変わらない。細身の身体に、黒の小袖。腰には、長短の刀が二本。少年は、桟敷の段を音もなく降り、大香炉の前へ進み出た。篝火の明かりが、その顔を照らす。
千早は、息をするのを忘れた。
(蓮)
頬の線は、細く鋭くなっていた。丸かった目は、切れ長に伸びていた。声は、まだ聞いていない。五年前、炎の中で泣いていた十の子供と、目の前の少年を、千早は必死に重ねようとした。重なりそうで、重ならない。
顎の下に、小さな傷があったはずだった。蛍を追いかけて、川原で転んだときの傷。篝火の影になって、そこは見えなかった。
白い打掛の女から、少年が線香を受け取った。火を移し、大香炉に立てる。その手つきには、一片の迷いもなかった。
「穂刈刑部が名代、蓮丸」
声が、河原に通った。低い。千早の知っている声より、ずっと低い。
「二刀にて、仕る」
少年は、群れを見渡した。その目を見た瞬間、千早の指先から血の気が引いた。
何も映していない目だった。怒りも、怯えも、昂ぶりもない。ただ、目の前の人の群れを、斬るべきものとして眺めているだけの目。
――眉ひとつ動かさなかったそうだ。
木賃宿で聞いた噂が、耳に蘇った。
(そんなはずはない)
指が、刀の柄に食い込んだ。
(あの子は、蛍を放してやる子だった。夜の厠に、一人で行けない子だった)
駆け寄りたかった。群れをかき分けて、あの子の前に立って、名を呼びたかった。だが、足は前へ出なかった。
もし、あの子が振り向かなかったら。もし、あの子が、自分を知らない女として見たら。もし、あの子の二本の刀が、自分に向けられたら。千早には、それを確かめる勇気がなかった。
少年の目が、群れの上を滑っていく。何かを探しているようだった。その目が、千早の上を通り過ぎ――
ほんの一瞬、止まりかけた。
だが、止まらなかった。少年の目は、そのまま群れの端まで流れていき、やがて興味を失ったように伏せられた。
少年は踵を返し、桟敷へ戻っていく。刑部のすぐ脇に控え、片膝をついた。まるで、主人の足もとに伏せる、よく躾けられた犬のように。
唇を、噛んだ。血の味がした。
桟敷の上で、刑部が手すりから手を離した。
「では、最後に」
ゆっくりと、段を降りてくる。
「わしも、名乗るとしよう」




