第十五話 黒い歯の列
鉄漿丸は、大香炉の前で足を止めた。背後の遊女たちも、一斉に止まる。線香を受け取ると、無造作に火を移し、大香炉に突き立てた。
「鉄漿丸。遊里の差配を、殿から任されている」
それだけだった。だが、その声には、群れを黙らせるだけの重みがあった。
「女衒が剣で家督を狙おうってんだ。笑う奴は、今のうちに笑っとけ」
誰も笑わなかった。鉄漿丸は満足げに鼻を鳴らし、背後の女たちを振り返った。女たちが、一斉に頭を下げる。
その列の中ほどに、お志乃がいた。昼に見た洗い髪は高く結い上げられ、素顔は白粉で塗り込められている。別人のようだった。
お志乃の目が、群れの中の千早を捉えた。一瞬だけ。それから、何事もなかったかのように、視線は宙へ戻った。知らない顔だ、とその目が言っていた。
列に並ぶ女たちの顔を、一人ずつ目でたどった。お糸の姿は、なかった。まだ客を取らされていない娘は、この列には並ばない。知らず詰めていた息を、細く吐いた。
鉄漿丸と女たちの列が去ると、入れ替わりに、黒い影が大香炉の前へ進み出た。男だった。痩せて背が高い。黒の小袖に、黒の袴。顔にも、表情らしいものが一切ない。
「影次」
名だけが、短く告げられた。流儀も、来た国も言わない。白い打掛の女から線香を受け取り、火を移し、大香炉に立てる。
その手が――ほんの一瞬だけ、止まった。
線香の先が、まっすぐ桟敷のほうを向いていた。まるで、刀の切っ先を向けるように。次の瞬間には、線香は灰に突き立てられ、男は群れの中へ消えていた。
桟敷の暗がりへ、目をやった。何も、見えなかった。
主膳が、扇で河原を指した。
「ほかにはおらぬか! 腕に覚えある者は――」
「お、俺も!」
群れの後ろから、かすれた声が上がった。人垣をかき分けて、男がひとり、転がるように進み出てきた。四十がらみの、痩せた男だった。日に焼けた顔に、深い皺。擦り切れた野良着に、腰には刀もない。両の手は、土と煤で黒く汚れていた。坑夫の手だった。
「辰五郎……金山の、人足だ。俺も、名乗りを、上げる」
一瞬の沈黙。それから、河原じゅうが、どっと笑いに包まれた。
「刀もねえのにか!」
「鶴嘴で斬るつもりか、おっさん!」
「家督が欲しいのか、それとも姫さまか!」
辰五郎は、笑い声の中で、ただ立ち尽くしていた。震える手で、拳を握っている。その目は、笑う群れを見てはいなかった。河原の端。さっき遊女たちの列が去っていった、その先を見ていた。
千早の胸の奥で、何かが繋がった。
――おとうも、同じ顔してた。
湯殿で、お糸が言った言葉。
(この男が)
主膳が、顔をしかめて扇を振った。
「ええい、たわけ! 人足風情が、死合いを何と心得る! 者ども、つまみ出せ!」
桟敷の脇から、足軽が二人、駆け寄ってくる。辰五郎の腕が、乱暴に掴まれた。
そのとき。
風向きが、変わった。坑口のほうから吹き下ろす風が、桟敷の幔幕を揺らし、千早の顔を撫でていく。その風に、ある匂いが混じっていた。焦げた縄の匂い。
火縄だ。
だが、鉄砲衆の詰める櫓は、河原の反対側にある。この匂いは――桟敷のほうから来ていた。
千早が、桟敷の暗がりに目を凝らした、その瞬間。
「よい」
低い声が、河原に落ちた。大きな声ではなかった。それなのに、河原の笑い声が、一瞬で消えた。足軽たちが、辰五郎の腕を掴んだまま動きを止める。主膳が、扇を取り落としそうになる。
「立てさせよ」
桟敷の奥の暗がりから、ひとりの男が、篝火の明かりの中へ歩み出てきた。大柄な男だった。四十半ば。肩幅が広く、首が太い。日に焼けた顔に、刻み込まれたような深い皺。腰には、大小の刀を二本。
坑夫の辰五郎を見下ろし、男は面白そうに口の端を吊り上げた。
「人足が、家督を望む。それもまた、一興よ」
千早は、その場から一歩も動けなくなった。
その声を、知っていた。
五年前の夜。炎の向こうで、燃える屋敷を見上げながら、同じ声で、同じように笑っていた男がいた。
――焼け。一人残らず。
穂刈刑部。
千早は、初めて、仇の顔を見た。




