第29話 花火に誘うだけなのに
団長が振り返ります。
「どうした?」
「その……」
私は足を止めて、彼を見上げました。
黒い瞳が不思議そうに見返してきます。
私は思わず目を逸らし、地面に視線を落としました。
──花火を一緒にみませんか。
それだけのことが、どうして言えないのでしょう。
別に、好きだと言うわけではありません。
誘うだけ。
それなのに、言葉が喉の奥で絡まって、出てこないのです。
リアなら簡単に言えたことが、今はこんなにも難しいなんて。
「フィオナ?」
訝しむような声。
早く、言わなくちゃ。
私は思い切って顔を上げました。
「あの!」
彼の眉が、少し驚いたように上がります。
「うん?」
「その……」
「……」
「……」
自分が信じられません。
花火さえ誘えないなんて。
でも、断られたらと思うと、どうしても言えませんでした。
自分はリアとして彼の想いを拒絶しておいて、フィオナとしては誘うことすらできないなんて。
私は小さく首を振りました。
「……いえ、なんでもありません」
「なんでもない顔じゃないな。どうした?」
心配そうに覗き込まれて、顔が熱くなるのを感じました。
違います。
そんなふうに心配しないでください。
これでは自意識過剰な面倒くさい女です。
「ほ、ほんとになんでもないです」
「フィオナ」
「だから、ほんとに……」
「何か言いたいことがあるなら、遠慮なく言ってくれ」
真剣に見つめられました。
それから、その目が、揺らぎました。
「その……少しややこしい関係なのは分かるが、君が言った通り、この数日間、ただの上司と部下として接してきたつもりだ。正直、まだ割り切れていない部分はあるが、それでも努力はしている。だから……」
彼はそこで言葉を切り、少しためらってから続けました。
「何か言いたいことがあるなら、飲み込まないでほしい。君が望むように、今は今として関係を構築したいと思っている。だから言葉足らずで誤解するのもされるのも避けたい」
そのまっすぐな瞳に、息を飲みました。
……困りました。
そんな、大層なことではないのですが。
逆に言い出しにくくなってしまいました。
「わ、私……」
「ああ」
「その……」
「……」
「……」
「フィオナ」
「……はっ、はい!」
言わなくちゃ。
ちゃんと、フィオナとして。
「私、その……」
「……」
「花火が」
「……」
「見たいなぁ……と」
言葉の最後は、ほとんど空気に溶けていました。
しん、と沈黙が落ちます。
どうしましょう。
気まずいです。
そもそも「花火が見たいなぁ」ってなんですか。そんなの勝手に見ろって話です。
「団長と一緒に」が抜けてます。
チェルシーならこんな失敗、絶対にしません。
「……聞いていいか?」
明らかに困惑している声です。
私は、こくんとうなずきました。
「それは……誘っているのか?」
「……はい」
「俺を?」
「はい」
「花火に?」
「……はい」
顔が痛いくらいに熱いです。
どうしてここまで念押しされているのでしょう。いえ、私が言葉足らずだったからですね。団長は誤解がないように、と有言実行しているだけです。でも、ものすごく恥ずかしいです。
「その、お忙しいならいいんです。急な話ですし……」
「いや、時間は作れる。だが、どうして俺を誘うんだ」
「えっ?!」
どうして……って。
あなたと見たいからに決まってるじゃありませんか!そこまで言わせるんですか?!
「それは……その……」
恥ずかしすぎて泣きそうです。
チェルシーと行く予定がなくなったから。
誰でもいいから一緒に行きたい。
そんなふうに誤魔化したら、その通りに受け取られそうです。
「……普通に、団長と見たいから……です」
「普通とは」
そこ、拾わないでください!
「で、ですから、他意はなく、あなたと花火が見たいだけです」
「理由は?」
これ、尋問ですか?!
理由なんて、あなたが好き、以外にいったい何が……。
「護衛か?」
……はい?
「夜は物騒だからな」
ち、違……っ!!
どうしたらそんな斜め上の理由にたどり着くんですか!
「団長、わざとですか?!」
「何が」
「花火に誘う理由なんてひとつじゃないですか!」
「そうとは限らん。護衛、密談、色々あるだろう」
「誰がそんな物騒な理由で誘うんですか。察してください」
すると、彼は顔を曇らせました。
「察して、誤解するのは避けたい」
なんて、ずるい言い方でしょう。
これまで、私たちは何度も言葉を飲み込んで、勝手に傷ついて、勝手に誤解してきました。
だから、団長が確認しようとしているのは分かります。
分かるからこそ、逃げられません。
私は深く息を吸いました。
「……団長と、夏祭りに行きたいです」
「ああ」
「理由は、護衛でも密談でも仕事の相談でもありません」
「……」
「ただ、あなたと一緒に見たいからです。他でもない、あなたと」
……言いました。
言ってしまいました。
心臓が痛いくらいに打っています。
指の先が震えています。
けれど。
「……そうか」
それは固く、低く、どこか思い詰めたような声でした。
ずきん、と胸が痛みました。
やっぱり。
あなたが好きなのはリアで、私のことなんてなんとも……。
団長がぽつりと呟きます。
「俺があの時、あなたに……」
──あなた。
その呼びかけの向こうにいるのは、リア。
まさか花火はリアの最期の願いだから、と考えて……。
「わかった、それなら……」
「わかってません!」
「……え?」
「違います、そうじゃないんです。ただのデートのお誘いなんです。私はフィオナとしてあなたと花火が見たいだけなんです! お願いだからリアじゃなくて私を見てください。私はずっとあなたのことが……!!」
そこまで言った瞬間、顔どころか耳まで熱くなりました。
もう無理です。
今すぐ穴を掘って埋まりたいです。
できればその上に芝生を植えて、誰にも見つからないようにしてほしいです。
団長は、しばらく何も言いませんでした。
あまりにも沈黙が長いので、断られるのだと思いました。
胸の奥が、きゅっと縮みます。
「……すみません、部下からこんなこと言われても困りますよね。忘れてください」
笑顔を作ろうとしましたが、じわりと涙が浮かび、私は慌ててうつむきました。
「フィオナ」
気遣うような声。
そんなもの、いりません。
「もう、行きます」
「待ってくれ」
ぐっと腕を掴まれ、伏せた顔を覗き込まれました。彼は涙に驚いたように、息をのみました。
「見ないでください」
「すまない。だが、話を聞いてくれ」
「別に私は……」
「頼むから、行かないでくれ」
黒い瞳の奥に、強い懇願がありました。
私がうなずくと、彼はつかんでいた手を離しました。
「……驚いて、言葉を失っただけだ。そんな理由で誘われるとは、思ってもみなかった」
「そんな理由って……」
「いや、悪い意味ではない」
団長は困ったように眉を寄せました。
「君が、フィオナとして俺を誘ってくれるとは思っていなかった」
胸の奥が、またきゅっと痛みます。
「……リアだと思ったんですか」
「ああ。でも、好意からではなく、最期の花火すら見せてさしあげられなかったことへの意趣返しかと」
意趣返し。
「あなた、リアのことをなんだと……」
「いや、リア様ならやりかねん」
その断定に、思わず吹き出してしまいました。
確かに、リアならやりそうです。
でも。
私は弱く微笑みました。
「花火に誘われて、真っ先に思い浮かべるのは、リアなんですね」
「違う」
即答でした。
その声があまりにも強くて、私は、はっと顔を上げました。
団長は、まっすぐに私を見ていました。
黒い瞳の奥に、さっきまでの迷いはありません。
「初めは、君からの言葉だと思った。だが、そんな都合のいい解釈をするべきではないと……」
そこまで言って、彼は、さっと目を逸らしました。顔がほんの少しだけ赤く見えるのは、気のせいでしょうか。
私はありったけの勇気をかき集めて、そっと団長の手をとりました。
「……っ」
「全部、私の、フィオナからの言葉です。お願いだから、そのまま、受け取ってください」
そう言うと、彼は再び私を見つめました。
「……すまない。だが少なくとも、さっき君が俺に向けた言葉を、リア様のものとして受け取るほど愚かではないつもりだ」
私は目を瞬きました。
── お願いだからリアじゃなくて私を見てください。私はずっとあなたのことが……!!
今度は私が赤くなる番でした。
そうでした。
勢いに任せてなんてことを……!
慌てて団長の手を離そうとすると、逆に強く握り返されました。
「君の言う通り、俺はまだ、完全には分けられていないのだと思う。リア様の記憶を持つ君と、今ここにいるフィオナを」
彼は苦しげに息を吐きました。
「だが、分けられないことと、君を見ていないことは違う」
「……」
「俺が今、話しているのはフィオナだ」
低い声が、静かに落ちました。
「怒ると早口になって、泣きそうになると下を向いて、肝心なところで言葉を飲み込む。霊獣のことになると無茶をして、腹が減ると分かりやすく機嫌が悪くなる。そういう君だ」
「腹が減ると機嫌が悪くなるところまで見ないでください」
思わず言い返すと、団長の目元がほんの少しだけ緩みました。
「見てしまう」
ずるい。
そんな目で、そんなことを言わないでください。
火照った顔を隠すようにうつむくと、
「それで、何時に迎えに行けばいい?」
と軽やかに言われて、私は目を丸くしました。
「……受けて、くださるんですか」
「もちろんだ」
「デートですよ?」
言った瞬間、自分で自分の首を絞めたことに気づきました。
なぜ確認したのでしょう。
さっき自分で言ったではありませんか。
デートのお誘いだと。
団長は一瞬だけ黙りました。
次に落ちた声は、いつもより少しだけ低く、真剣なものでした。
「……そのつもりで行く」
「……」
「君が、そう望むなら」
全身が熱くなりました。
今すぐ走って逃げたい。
逃げ出して、全部なかったことにしたい。
でも、それより一歩でも彼に近づきたい。
その気持ちが勝りました。
「望みます」
小さく、けれどはっきりと言いました。
「花火も、最初から最後まで見たいです」
「ああ」
「途中で仕事の顔をするのは禁止です」
「……努力する」
「過保護も禁止です」
「それは難しい」
「難しいんですか」
「難しい」
あまりにも真顔で言うので、私は笑ってしまいました。彼も優しく目を細めました。
「では日が落ちる頃に迎えに行く」
「はい」
「フィオナ」
名前を呼ばれて、胸が跳ねました。
「……何でしょう」
「誘ってくれて、ありがとう」
たったそれだけの言葉でした。
けれど胸の奥で、ぱちん、と小さな光が弾けたような気がしました。
まだ花火は上がっていません。
夏祭りにも行っていません。
それなのに、私はもう、今夜の花火を一つ見てしまったような気がしました。




