第30話 花火
「……すごい人ですね」
団長と並んで歩きながら、私はきょろきょろと辺りを見回しました。どこを見ても、人、人、人です。
お祭りの日に、街の中心部へ来たのは初めてです。前世ではアルに止められましたし、今世では村のお祭りにしか行ったことがありませんでした。
日が暮れて、街にはランタンが灯り始めていました。
川沿いの石畳の上には白いパラソルが整然と並び、その下では様々な食べ物が売られています。お肉の焼ける匂いや、焼き菓子の甘い香りが鼻をくすぐり、お腹が、ぐぅと鳴りました。
人々は屋台の前のテーブルや、近くの大階段でワインの杯を傾けながら陽気に談笑しています。
「迷子になりそうです」
そう言うと、団長は苦笑を浮かべました。
完全な非番ではないから、と隊服のままなので、少し目立っています。
「だからあの時言っただろう。警護が難しいので、子どもみたいなわがままを言わないでくださいと」
「確かに言われましたけれど……意地悪されてるのかと」
「どんな解釈だ。俺だって叶うならリア様とここに来たかった」
彼は懐かしむように目を細め、それからこちらに向き直りました。
「でも今は、君とここに来られたことが何より嬉しい」
「……っ?!」
真っ直ぐな視線と言葉に、顔が熱くなるのを感じました。
あなた、そんなこと言う人でしたか?!
その驚きが顔に出ていたのでしょう。
彼は微かに笑いました。
「誤解は避けたいと言っただろう。本当はリア様と来たかったのだと思われては困る。俺は君と……」
「わ、わかりました! わかりましたから、行きましょう! あ、ほら美味しそうな焼き菓子があります!」
恥ずかしさに耐えかねて先に行こうとすると、ぱしっと腕を掴まれました。
「本当に迷子になるぞ」
確かにそうですけど!
それから、彼は左手を差し出しました。
「よければ」
……手をつなぐってことですか?
初心者にはいきなりハードルが高いんですけど、デートってこういうものなんですか?チェルシー助けてください!
「嫌なら、無理にとは言わないが」
彼の眉が、なんだかさみしそうに下がります。
その顔はずるいです!
大型犬がしょぼんとしてるみたいじゃないですか……!
「い、嫌ではないんです。ただ、デートの作法が分からなくて……」
「難しく考える必要はない。どうしたいか言ってくれれば、俺は君の望みを全て叶える」
「……団長の望みは?」
「俺の?」
彼は困ったように顔をしかめました。
「俺の望みに合わせるのは無理だ。二十五年の片想いは重すぎる。そこは自覚している」
……うっ。
何を望まれているのか、少し怖いです。
怖いですが、逃げません。
私は彼の左手をとりました。
「は、はぐれてはいけませんので……」
って、なんでこんな言い訳したんですか!
全然可愛くありません!
それなのに彼が嬉しそうに笑うので、目を合わせられません。
「それでは行こうか。焼き菓子からか?」
「……はい」
困りました。
どうしても意識がつながれた手に向いてしまいます。
大きくて、温かくて、ごつごつしていて。
リアの時は、酔ったアルにベッドで抱きしめられても、温もりに安心しただけでした。
フィオナとして出会って、ピエラに押された時も、彼の腕の中は親鳥のようでした。
「フィオナ」
それなのに、今は全然違います。
手をつないでいるだけなのに、心臓がうるさいです。ちっとも落ち着きません。
「フィオナ」
でも。
もしもあの時。
リアに対して今みたいな態度で接してくれていたら──
「フィオナ?」
はっ、と我に返ると、団長が心配そうに顔を覗き込んでいました。
「どれにするんだ? くるみ、ケシの実、ハーブ、それからチーズと蜂蜜があるが」
「……え、ええと……ハーブで……」
すると彼は意外そうに眉を上げました。
「ナッツじゃないんだな」
「え?」
「いや、リア様はナッツがお好きだったから。でも君はハーブか。覚えておく」
焼き菓子を受け取り、私たちは大階段の端っこに並んで腰を下ろしました。
川からの風が、ほんの少し暑気を和らげてくれます。
「……フィオナ」
固く、緊張した声が落ちました。
うつむいた彼の横顔に、残照の影が差しています。
「謝りたいことがある」
「……なんでしょう?」
「その……大聖女について、害悪だと言った件についてだ」
総帥と三人で食事をしたときの記憶が蘇りました。
『もし新たな大聖女が現れたとしても、俺は頼る気などない。むしろ害悪だ』
確かに、とても傷つきました。
でも。
「すまない。あんな言葉を使うべきではなかった。だが、君に、どうしても力の行使をさせたくなかった。大聖女になるという選択肢すら、考えてほしくなかった。たとえ君の意思を無視することになっても、俺はもう二度と君を失いたくない。それだけは絶対に、耐えられない。自分勝手なのはわかっている。それでも……!」
彼は一気にそう言うと、深く息を吸い込みました。
「……だが、言葉の選択は最悪だった。本当にすまない」
それは、苦しみを無理やり押し殺したような声でした。視線は石畳の一点に落ち、拳は膝の上で固く握られています。
「私……」
なんだか一言でも間違えれば逃げ出されそうな気がして、私は話す前に彼の手をそっと包みました。
微かに体が跳ね、彼の手から力が抜けるのを感じました。それから、ゆっくりと顔を上げた彼を、見つめました。
「……確かに、傷つきました。私なんて必要なかったんだと」
「それは……!」
「聞いてください、団長」
「……」
「私、思ったんです。大聖女としてなら、役に立てるのかなって。あなたが大聖女なんて必要ない世界を作ってくれようとしているのに、じゃあ私はあなたのために何ができるのか分からなくて。……ふふ、浅はかですよね」
私は彼の手を強く握りました。
「あなたがリアのためを思ってくれたように、私にとってはあなたが大事なんです。境界門を破壊するためにあなたが危険な目に合うくらいなら、私が守りたいと思ったんです。それに……」
続く言葉は、なかなか出てきませんでした。
「それに?」
と促されても私はしばらく迷って、顔が赤くなるのを感じました。
「……その、バカみたいなんですけど……。あの時、総帥がご令嬢とのお話を持って来られたでしょう?」
「ああ」
「私には持参金もないし、社交界に出られるような身分もありません。でも伯爵令嬢ならあなたが次の総帥になる助けになれます。それなら、私は大聖女としてあなたを助ければいい……と」
そう言うと、彼は少し眉を寄せました。
「……よく、わからないな。どうしてそうなる?」
うっ。
「だから……その……」
ますます顔が熱くなります。
「あなたが、誰か好きな人と結婚するくらいなら、政略結婚してくれた方がマシですし……大聖女なら、総帥といえども無視できませんし……むしろ誰よりも近い関係になりますし……」
言っていて、恥ずかしくなります。
徹頭徹尾、私利私欲です。
これのどこが大聖女なんですか。
「……聞いていいか」
団長はひどく慎重に、言葉を選ぶように口を開きました。
「結局のところ、君は、何を望んでいるんだ?」
そう聞かれて、私は固まってしまいました。
──私の、望み。
霊獣舎で働いて、友達とお茶をして、休日はのんびり昼まで寝て。
そして、愛され女子になること。
それが望みだったはずです。
前世みたいには生きない。
窓から外を見るだけで満足したりしない。
欲しいものはちゃんと欲しいと言う。
与えられた役割ではなく、自分の足で立つ。
その通りに生きてきたはずです。
でも私は、彼を失うくらいなら大聖女に戻ってもいいと思ってしまいました。
……だったらもう、それでいいではありませんか。
私は、黒い瞳の底を覗くように見つめました。
「私の望みは、あなたのそばにいることです」
彼の手が、私の手の中で強張りました。
「そのためなら、大聖女になってあなたを私の護衛騎士に任命することも厭いません。反対されても権力で押し切ります。たとえあなたが好きな人と結婚しても、私はあなたを離しません。絶対に」
愛の告白ではありません。
これはもう宣戦布告です。
「……それは」
団長は、しばらく言葉を失っていました。
黒い瞳が、まじまじと私を見つめています。
呆れているような。
驚いているような。
それでいて、どこか泣きそうにも見える顔でした。
「ずいぶんと……横暴な大聖女様だな」
「はい。でも、撤回はしません」
私は彼の手を握ったまま、もう一度言いました。
「私は、あなたのそばにいたいです」
彼は深く息を吐きました。
それはため息のようで、笑いをこらえる息のようでもありました。
「……困ったな」
「困ってください。軽蔑されても構いません。私は……」
「違う」
団長は即座に否定しました。
「そんなふうに言われて、嬉しいと思ってしまう自分に困っている」
「……え」
「君が俺を離さないと言うなら、俺は喜んで捕まってしまう」
低い声が、静かに落ちました。
「だから、困っている」
私は目を瞬きました。
まさかそんな答えが返ってくるとは思わず、一拍の後に全身が熱くなりました。
慌てて手を離そうとして、逆に強く握り返されます。
「〜〜〜っ!!」
彼は、ふっと小さく笑いました。
それから、真剣な目をしました。
「だが、フィオナ。俺のそばにいるために、大聖女になる必要はない」
「……」
「護衛騎士に任命する必要もない」
そう言って、彼は私の手を持ち上げ、甲にキスをしました。
「……っ!!」
「俺はずっと君の騎士だ。解任された覚えはない」
た、確かに解任はしていませんが!
「俺が誰かと結婚する心配も、しなくていい。むしろ政略結婚を勧められて、腹が立った。いや、君が悪いわけではないが、君にとって俺はその程度の男なのかと」
少し拗ねたように、眉が寄せられます。
私はチェルシーの言葉を思い出しました。
『フィオナさんが犯した最大のミスは、政略結婚を勧めたことですよ』
「あの……もしかして、あの害悪発言って……」
恐る恐る訊くと、彼は片手で顔を覆って項垂れました。
「……そうだ。つい売り言葉に買い言葉で選択を間違えた。本当にすまない」
それから、まっすぐに私を見ました。
「確認させてくれ。君と俺の望みは同じということで間違いないか? お互いの傍にいたいと願っていると」
また確認が入りました。
ものすごく恥ずかしいですが、これを避けては話が進みません。
「……はい」
「そうか」
彼は優しく笑い、少し眉を下げました。
「まぁ、本音を言えば、君の傍にいるだけで満足はしないが、今はそれでいい」
……?!
それってどういう……。
その時、川向こうで、どん、と腹に響く音がしました。破裂音とともに花火が夜空いっぱいに広がり、歓声があがります。
「始まったな」
「はい」
色とりどりの光の花が夜空を彩ります。
リアが見たかったもの。
最期に音だけを聞いたもの。
それを、私は今、彼と手をつないで見ています。
あの時リアが望んだものは、本当に花火だったのでしょうか。
それとも、この手の温もりだったのでしょうか。
「フィオナ」
花火の音が空気を震わせる中、耳元に低い声が落とされました。
「もう一度、これを受け取ってくれないか」
彼の手の中にあったのは、共鳴石のついた指輪でした。うなずいて受け取ろうと手を伸ばすと、彼は私の左手をとりました。
「はめても?」
「……はい」
そう答えると、団長はひどく丁寧な手つきで、私の左手の薬指に指輪を通しました。
冷たい石が肌に触れた瞬間、胸の奥で何かが震えます。
以前これを受け取った時は、ただの貸与品だと思おうとしていました。
霊獣舎の仕事に必要なもの。
団長との連絡手段。
そういう、名前をつけなくてもいいもの。
でも今は、違いました。
花火の光を受けて、共鳴石が淡くきらめきます。
「誤解がないように言っておくが、その指にはめる意味はよく分かっている。前回も分かった上で渡したが……」
彼は何かを思い出したように、苦笑を浮かべました。
「……今から思うと、重すぎるな。初恋を長い間拗らせるとこうなる」
そう言って肩をすくめます。
私は、ふふ、と笑いました。
花火の光が、彼の横顔を照らします。
黒い隊服も、厳しい目元も、少し疲れたような口元も。
全部、私が知っている団長でした。
リアの護衛騎士だったアルベルトではなく。
今、私の隣にいる人。
「団長」
「ん?」
「今日、一緒に来てくださって、本当にありがとうございます」
そう言うと、彼は優しく目を細めました。
花火はもう、窓の外にあるものではありませんでした。
私はここにいる。
リアではなく、フィオナとして。
私の足でここに来て、私の目で花火を見ている。
隣には、団長がいる。
左手には、彼がはめてくれた指輪がある。
それだけで、胸の奥が痛いくらいに満たされていました。
だからでしょうか。
遠くで鳴った鐘の音に、私は一瞬、それも花火の続きなのだと思ってしまったのです。
けれど、団長の表情が変わりました。
次の瞬間、東の空に赤い光が上がります。
花火とは違う。
祝福ではなく、警告の光。
団長が低く告げました。
「東の結界が、崩落した」




