第31話 出撃
──結界の崩落。
リアの記憶が、目の前にあるように浮かび上がりました。
飛ばなくちゃ。
結界の起点へ。
反射的に立ち上がりかけた私を、団長は力強く押し留めました。
「行くな」
「でも……」
「君は大聖女リアじゃない。霊獣舎のフィオナだ。今、君にできることはなんだ」
彼は私の両肩をぐっとつかみました。
「前線は聖騎士団に任せろ。結界は神殿が、ヴラニミルがなんとかする。結界崩落時に境界門を叩く計画も総帥の許可を得ている。いいか、これは想定外の事態ではないんだ。あの時とは違う」
その黒い瞳に焦燥はありません。
ただ、決意だけがありました。
「……わかりました。霊獣たちの準備をします」
そう答えると、彼は、ほっとしたように目元を緩めました。けれど、すぐに厳しい口調で続けました。
「何が起きても前線には来るな。いいな。俺たちを信じてくれ」
「……はい」
そう答えた声は、自分で思ったよりも小さく震えていました。
行きたい。
あなたと一緒に。
私が行けば、少なくとも結界だけは張れる。
私はぐっと拳を握りました。
けれど、それでは二十年前と同じです。
私はリアではない。
たった今、団長にそう言われたばかりなのに、また同じことをしようとするなんて。
私は左手の指輪に触れました。
信じる。
前線へ向かう団長を。
結界を維持するヴラニミルたちを。
霊獣たちを。
そして、フィオナとして生きてきた、私自身を。
団長は一度だけ、私の左手に視線を落としました。
「無茶はするな」
「団長もです」
そう言うと、彼はわずかに目を細めました。
「努力する」
それだけを残して、団長は踵を返しました。
私は団長の背中を見送りませんでした。
見送ったら、追いかけたくなると思ったからです。
だから私は走りました。
霊獣舎へ。
私が今いるべき場所へ。
*
そこからの動きは、とても速かったことを覚えています。
団長が言った通り、これは想定外の事態ではなく、聖騎士団、神殿、関係各所がすでに共有している作戦だったのです。
霊獣舎も、もちろんそのひとつでした。
私とチェルシーはエリンさんの指示に従って、霊獣を準備しました。
エルネストさんや技術班の方たちが改良してくれた聖笛も騎士たちに配られました。
結界の外郭には、魔物に即応できる部隊が配置されているそうです。そして、周辺の住民が避難を終えたという報告を受けて、団長が率いる本隊が出立しました。
──どうか、無事で。
私は彼らを見送ると、予備隊の霊獣たちの準備を始めました。
彼らを連れて、中間地点まで運び、交代に備えるのです。
しばらくして、中間地点に設けられた医療用の天幕へ、負傷した霊獣たちが次々と運び込まれてきました。
翼に傷を負った翼狼。
魔物の毒に触れて、聖力の流れが乱れた小型の飛竜。
外傷は浅いのに、震えが止まらない銀翼竜。
「フィオナちゃん、こっち!」
エルネストさんの声に、私は駆け寄りました。
「この子、傷は浅いんだけど、飛ぼうとしない。何か訴えてる?」
私は銀翼竜の首筋に手を当て、話しかけました。
「よくがんばりましたね。翼以外に、どこか痛いところはありませんか?」
痛い。
怖い。
銀翼竜はそう言っています。
けれど、声に乗せられた聖力が、呂律が回らないように乱れています。
「……これは、魔力酔いです。銀翼竜が酔うほどの魔力を浴びるなんて……」
「なるほど。じゃあ外傷処置だけじゃ駄目だね。フィオナちゃん、中和の聖術覚えてる?」
「はい!」
「じゃあ任せた。僕は次を診てくるから」
エルネストさんはそう言って、翼狼の方へ走っていきました。
私は銀翼竜の震える鼻先に額を寄せます。
「大丈夫。すぐに中和しますから」
手をかざし、聖術を展開すると、銀翼竜の呼吸が、少しだけ深くなりました。
それを見て、胸の奥が熱くなります。
私は前線にはいません。
結界を構築してもいません。
境界門を叩きに行くわけでもありません。
それでも、ここで息を取り戻す子がいる。
なら、私はここにいる意味がある。
けれど、負傷した霊獣の数は、想定よりも多くなっていきました。
中間地点まで戻ってこられる子は、まだいい。
問題は、戻ってこられない子たちです。
前線近くで聖力を乱し、飛べなくなった霊獣がいる。
騎士を乗せたまま墜落しかけた翼狼がいる。
その報告が届くたび、私の手は冷たくなりました。
「ここでは遅いです」
私は聖術を展開しながら、エルネストさんを振り返りました。
「もっと前に、医療地点が必要です。霊獣が自力で戻ってこられないなら、こちらから近づくしかありません」
「言いたいことは分かるけど、前線近くは魔力濃度が濃いし、それこそ魔物の襲撃もあり得る。普通の天幕じゃ持たないよ」
「だから、結界を張ってもらいます」
「誰に?」
答えはひとつでした。
「ヴラニミル大神官です」
けれど、医療用天幕を前線近くに移すには、霊獣舎の責任者の許可が必要です。
新人の私が「必要だから」と言ったところで、普通なら通る話ではありません。
そんな中、エリンさんに相談すると、彼女は一度だけ私を見て、すぐにうなずいてくれました。
「できることは全部やりましょう。ね」
そして一時間も経たない内に、許可を取り付けてくれました。
やっぱりホワイト上司です。
あとはヴラニミルを説得するだけです。
ちゃんと話を聞いてくれるでしょうか。
……いえ、彼の弱点、霊鹿を使ってでも聞いてもらいます!
私は翼狼に乗って、神殿へ飛びました。
結界対応に追われて、内部は騒然としていました。けれど、二十年前のような重苦しい空気はありません。たとえどれだけ忙しくても、やれることがあるというのは、それだけで希望になるのです。
「お願いします。前線近くに、天幕を張れるだけの結界を構築してください」
そう言うと、ヴラニミルは心底嫌そうな顔をしました。
「簡単に言うな。結界を張るには、起点と維持が必要だ。私は今、東側の補助結界で手一杯だ」
「でも、このままでは霊獣が戻ってこられません」
「戻ってこられないものは切り捨てるしかない」
「嫌です」
「戦場だぞ」
「知っています。でもなんとかしてください」
ずいっと詰め寄って計画書を押し付けると、彼は深いため息をつきました。それから、書面に目を通して、こちらを睨むと、耳元に顔を寄せました。
「……私がやらなければ、貴様が結界を張るのか? リア」
「……っ?! な、なんで……?!」
目を白黒させていると、ヴラニミルは唇の端を上げました。
「やわらかーい聖力とか言うやつは、リアとゼライア様くらいだ。で、ゼライア様が転生されたなら、もっと賢いはずだからな」
「相変わらず失礼ですね?!」
また何か嫌味な言葉が返ってくるかと身構えていると、彼は妙に真剣な目で私を見ました。
「いいか。君は前線には飛ぶな。今度は私の……いや、私とアルベルトの番だ」
固く、決意を帯びた声に、胸を打たれました。
そこには、二十年の矜持と、一滴の優しさが含まれているように思えました。
何も答えられずにいると、眼鏡の奥で、銀の瞳が、ふっと柔らかく細められました。
見たことのない笑みに、不覚にも息をのみました。
けれど、真剣に受け取るのが気恥ずかしくて、
「……さすが、大神官様ですね」
と、少し茶化したように言うと、彼もすぐにいつもの顔に戻りました。
「まぁな。史上最年少の大神官様だ。敬え」
ヴラニミルは鼻で笑うと、ソーニャを呼び寄せました。
「お、お呼びでしょうか……」
叱られると思ったのか、ソーニャは忙しなく手を動かしています。
ヴラニミルは騎乗用のローブを羽織りながら、彼女を見もせずに言いました。
「これから前線付近へ防護結界を張りにいく。私の分の仕事は君が処理したまえ」
「……は? え? 今なんと……」
「聞こえただろう。二度は言わん」
彼はボタンを留めながら扉の前まで進むと、顔だけで振り返り、ようやくソーニャに視線を向けました。
「心配するな。君ならできる」
ソーニャの顔が明るく輝きます。
「はいっ!」
「行くぞ、フィオナ」
私は慌ててヴラニミルを追いました。
「……で、どの霊獣で飛べばいいんだ?」
神殿の長い廊下を歩きながら問われ、私はぴっと人差し指を立てました。
「翼竜です」
「聖騎士の同乗はあるのか? 私は翼竜に乗る免許は持っていないぞ」
「大丈夫ですよ」
「何がだ」
ヴラニミルは怪訝そうに眉をひそめましたが、特に突っ込んだ質問はされませんでした。
そして神殿の外に出た瞬間──
ヴラニミルは露骨に顔をしかめました。
「きゅる!」
そこには、ピエラが翼を畳んで待っていました。今日もおすまし五割り増しです。
説得するの、ものすごく大変だったんですよ?
ツンデレはいいけれど、せめて三割はデレを見せてくれないとヴラニミルが離れていってしまいますよ!と半ば脅して来てもらいました。
「……確かに、翼竜だな」
「ピエラです」
「こいつに乗れと?」
「大丈夫です。ピエラなら、あなたの聖力の指示を絶対に間違えません」
「なぜ言い切れる」
私は胸を張りました。
「つがいですので!」
一拍の沈黙の後、
「きゅるっ?!」
とピエラが目を丸くして鳴きました。
ヴラニミルも眉間に手を当てて、呆れたように首を振っています。
「……何を言っている、お前は」
「赤銀の翼竜には運命のつがいがいるんです」
「だから?」
もうっ!鈍いですね!
「あなたがピエラのつがいなんです」
「なんでそうなる」
ピエラは、焦ったように、キュワキュワ鳴いています。
わ、私だって人間がつがいだとか意味わからないんだし!だいたいあなたなんて最初っから嫌な感じだし、翼竜に乗るのも下手くそだし……!
……ええっと、どこから訳しましょう。
かなり意訳しなくてはいけません。
けれど、その時。
私が通訳をする前に。
ヴラニミルが眉を寄せて舌打ちをしたのです。
「……誰が下手くそだ。貴様の飛び方が乱暴だから酔うんだろうが」
「きゅわっ! きゅきゅきゅっ! キュアっ!!」
丁寧に飛んでるわよ!でも恥ずかしいんだから仕方ないじゃない!
「……なら、もっと可愛げのあるところでも見せてみろ。分かりにくい」
「きゅ……」
だって……。
………………。
もう、通訳いりませんね?
「さすがつがいですね! お話できてるじゃありませんか!」
そう言うと、ヴラニミルは初めて気付いたように、はっとこちらを振り返りました。
「黙れ、バカ娘」
ひどい。
「……時間がない。東の境界門の方まで飛んでくれ」
ヴラニミルはそこで言葉を切り、少し迷ってから付け足しました。
「……頼む、ピエラ」
「きゅっ!!」
名前を呼ばれたピエラは、嬉しそうにひと鳴きすると、彼が乗りやすいように身を屈めました。
数分後、私は、ピエラとヴラニミルが飛んでいった東の空を見上げていました。
あの空の向こうで、団長が、聖騎士団が戦ってくれている。
そう思いながら、そっと指輪に触れました。
私はここで、やれることを、やります。
だから、どうか。
どうか──無事でいて。




