第32話 神獣
ピエラとヴラニミルが飛び立ってからしばらくして、前線近くに小さな防護結界が張られました。
その内側に応急処置用の天幕が設けられたことで、中間地点まで戻ってこられなかった霊獣たちが、次々と運び込まれるようになり、戦況は目に見えて持ち直しました。
ヴラニミルの結界は、相変わらず少し棘があります。けれど、以前よりずっと柔らくなっていました。
防護結界の内側では、エルネストさんの指示で、負傷した霊獣たちの応急処置が進められていました。
魔力酔いを起こした翼竜も、翼を傷めた翼狼も、戻ってこられさえすれば助けられる。
前線の霊獣たちの動きも、少しずつ整っていきました。
ここで助かる命がある。
私は、ここから前線を支えることができる。
だから、大丈夫。
そう思った、その時でした。
東の空が、赤黒く濁った光に染まりました。
天幕の布越しにも分かるほどの、強烈な魔力の閃光。
次の瞬間、地面が大きく揺れました。
薬瓶が落ち、霊獣たちが一斉に鳴きました。
これは──
ぞくりと背筋が震えました。
『前線より緊急報告!』
切迫した声が飛び込んできます。
『境界門より大型種、出現! 黒翼竜隊、押し返されています!』
天幕の中が凍りつきました。
大型種。
それは、ただの魔物ではありません。
境界門が吐き出した、主のような魔獣。
これが出てしまえば、黒翼竜隊だけでは足りない。
行かなければ。
一瞬、そう思いました。
けれど、私は頭を振り、代わりに、霊獣舎の方角を見ました。
あそこには、まだ動かしていない子がいる。
普段は奥で眠るように過ごしている、白銀の神獣。
自らが認めた者しかその背に乗せず、霊獣舎の守り神のようにそこにいる子。
あの子なら。
私は大きく息を吸い、
「エルネストさん」
と、呼びかけました。
「総帥に会わせてください」
*
霊獣舎に戻ると、キーラ総帥はすでに神獣の前に立っていました。
白銀の神獣は、奥の敷き藁の上で静かに頭を起こし、東の空を見ています。
「総帥」
私が駆け寄ると、キーラ総帥は振り返りました。
いつもの豪快な笑みはありません。
「神獣を出したいそうだね」
「はい」
「作戦は、大型種の出現時も想定されて策定されている」
「はい。でも、被害は拡大します」
「……そうだね」
総帥は神獣を見上げ、かすかに笑いました。
「私はもう前線で戦えるような年じゃないが、戦場で華々しく散るのも一興かもしれんな」
「いいえ。乗るのは、団長です」
即答すると、彼女の眉がわずかに動きました。
「アルベルトか。神獣が認めると思うか」
「わかりません。でも、私が繋ぎます。共鳴石を通して、団長の聖力を神獣に届く形へ整えます」
総帥は、私の左手に視線を落としました。
「それ、アルベルトとの共鳴石だったのか」
そう言われ、こんな時だというのに、顔が赤くなるのを感じました。
「できるのか、と聞くのは野暮だね。確証があるから言っているんだろう?」
「もちろんです」
総帥は、しばらく私を見ていました。
その目は、私ではない誰かを重ねているようにも見えました。
「……その目は、彼女によく似ている」
「彼女?」
「ゼライアだよ」
思いがけない名前に、息が止まりました。
「ゼライアは、最期まで君の心配をしていた。自分がいなくなったら、君はきっと無茶をすると」
胸の奥が、ぎゅっと痛みました。
「アルベルトにも頼んでいたよ。どうかリアを頼む、と」
それから、総帥は何かを悔やむように唇を噛み、東の空を仰ぎました。
「二十年前、私もあの戦場にいたんだよ。リア様が来てくださった時は、正直ほっとした。あの規模の結界構築をひとりで行えば、彼女がどうなるのか、分かっていたのにね」
「それは……」
「だから」
と、彼女は私の言葉を遮り、まっすぐにこちらを見ました。
「今度は私たちの番だ。私も、アルベルトも、ヴラニミルも、二十年を後悔の中で生きてきた。もう、あんな思いはしたくない。ゼライアにも顔向けできないしね」
彼女はそう言って、神獣の首筋を撫でました。
「フィオナ」
総帥はまっすぐに私を見ていました。
「神獣出撃を許可する。責任は私が取る」
その言葉に、喉の奥が熱くなりました。
「ありがとうございます」
「前線まで私がこの子を連れて行って、アルベルトに託す。だから君は、ヴラニミルの結界内から絶対に動くな。いいね」
「はい!」
*
キーラ総帥が神獣に乗って飛び立ったあと、私は医療天幕へ戻りました。
防護結界の内側は、さっきよりもずっと騒然としていました。
運び込まれる霊獣の数が増えています。
遠かったはずの魔物の咆哮がここまで届き、空気そのものが震えています。
……魔物に押されている。
赤黒い魔力の波が、一定の間隔で押し寄せ、結界にぶつかるたび、ヴラニミルの聖力がぎしりと軋みます。ピエラは結界の外で、彼を守るように魔力を弾き飛ばしています。
このままでは、医療天幕をもっと後方に下げなければいけなくなるでしょう。
私は無意識のうちに、左手の指輪に触れていました。
『フィオナ、聞こえるか』
低い声が、指輪越しに届きました。
胸が、ばかみたいに跳ねました。
戦場です。
こんな時です。
分かっています。
それでも、声が聞こえた。
生きている。
それだけで、泣きそうなくらい嬉しくなりました。
けれど、今はそんな場合ではありません。
私は息を吸い、声を整えました。
「神獣は到着しましたか」
『ああ。総帥から話は聞いた。今、神獣の横にいる』
「団長、神獣に触れてください。聖力を感じますか」
『……強いな。黒翼竜とはまるで違う。こちらを拒んでいるわけではないが、受け入れているとも言い難い』
「では、団長の聖力をこちらに流してください。私が形を整え、返します」
『分かった』
短い返事の後、すぐに、指輪を通して聖力が流れ込んできました。
硬い。
鋭い。
まっすぐで、折れない。
けれど、その奥にある芯は温かい。
団長の聖力です。
私はその聖力を両手で包むように受け止めました。
大聖女だった頃なら、力で押し通していたかもしれません。
けれど、今は違います。
強い聖力はいりません。
神獣が嫌がる棘を、少しだけ丸くする。
硬すぎる流れを、ほんの少しほどく。
団長の聖力の芯はそのままに、神獣に届く形へ整える。
『……身を屈めてくれた。今から背中へ乗る』
指輪の向こうで、神獣の気配が、ぴくりと揺れます。
拒絶ではありません。
少しの警戒。
けれど、受け入れようとしてくれています。
白銀の、深い聖力。
長い眠りの底にあるような、静かな力。
その聖力が、団長の聖力と少しずつ重なっていきます。
「……繋がりました。飛翔の合図を」
『分かった』
団長の意思を受け、神獣の聖力が緩やかな波形を描きます。
同時に、東の空が白く輝きました。
神獣が、空へ駆け上がったのです。
『黒翼竜隊、門の右側へ回れ! 大型種はこちらで引き受ける!』
団長の声は、もう私に向けられたものではありませんでした。
戦場全体を動かす、聖騎士団長の声です。
私にできることは、彼の聖力を整えて、神獣に渡すことだけ。
もどかしい思いはあります。
でも、二十年前を知る人たちが作り上げてくれたこの世界の中でなら、私はフィオナとしての役割を果たせるのです。
それに、今回は団長と聖力でつながっています。もう私は、あの時の孤独な大聖女ではないのです。
神獣の聖力が、東の空を駆けていきます。
私は祈るように、指輪に集中し続けました。
「フィオナ」
いつの間にか、ヴラニミルが横に立っていました。
「今からピエラと最前線へ飛ぶ」
「えっ!?」
「心配するな。ここの結界の維持は、神殿に要請済みだ」
「でも、どうして、あなたが……?」
「大型種出現時の作戦の一環だ。境界門への道を結界で作り、アルベルトを通す」
私は言葉を失いました。
それは、団長が単騎で境界門を叩くということ。
「道は狭く、一騎通すのがやっとだ。それなら、成功確率の高いあいつが行くのが一番だ」
わかります。
理屈はわかります。
でも。
私が何か言おうとするのを遮るように、ヴラニミルは言葉を継ぎました。
「これは団長判断だ。今回は大型種が現れ、魔物の数も多い。黒翼竜隊全体で叩く機会を待っていては、結界の方が保たない。……ああ、別に意見を聞きにきたわけじゃない。ピエラを借りるから、一応飼い主に報告したまでだ」
ヴラニミルはそう言って、踵を返しました。
その背中を見送り、私は倒れるように近くの机に手をつきました。
……団長が、一人で。
血の気が引き、頭がぐらぐらと揺れています。
怖い。
彼を失ったら、私──
その時、左手の薬指がびりっと震えました。
私は慌てて指輪を握りしめました。
だめ。
今、集中を乱すわけにはいきません。
それこそ、団長を危険に晒すことになります。
私は深く息を吸い込みました。
……それに、これは彼らの戦いです。
信じるしかありません。
東の空の下に、たくさんの聖力を感じます。
神獣の白銀の光。
黒翼竜たちの重く鋭い聖力。
ヴラニミルの棘のある結界。
ピエラの赤銀色の聖力。
それぞれがばらばらに動いているはずなのに、団長の号令で、一瞬だけ同じ方向を向きました。
私はただ、指輪を握りしめます。
団長の聖力が乱れないように。
神獣が団長を振り落とさないように。
二つの聖力が、戦場の真ん中でほどけてしまわないように。
それだけに集中しました。
その時、細く長い結界が伸びる感覚が届きました。
ヴラニミルです。
神獣と団長が抜ける、一瞬の道を作り出したのです。
そしてその彼を、ピエラの赤銀色の聖力がずっと守っていました。
通訳なんて必要ありません。
あの二人もまた、繋がっているのです。
『黒翼竜隊、援護を!』
団長の号令とともに、いくつもの聖力が一点へ集まっていきました。
私はその流れを、ただ感じていました。
二十年前、リアが最後に思ったこと。
境界門そのものを叩いていれば、何か違ったのではないか。
その答えを、今、みんなが形にしている。
聖騎士がいて。
聖女や神官がいて。
霊獣がいて。
霊獣舎のみんながいて。
団長がいる。
そして私も、ここに立っている。
その流れが途切れないように、私は強く指輪を握りしめました。
そして。
東の空が、白く弾けました。
一瞬、音が消えました。
次の瞬間。
『境界門、制圧完了!』
誰かの声が響きました。
天幕の中で歓声が上がります。
けれど私は、すぐには声を出せませんでした。
団長の声が、聞こえない。
「団長」
指輪を握りしめます。
「団長、聞こえますか」
返事はありません。
血の気が引いていくのを感じました。
まさか。
「団長!」
叫んだ、その時。
ざらり、と指輪が震えました。
『……聞こえている』
掠れた声。
でも、確かに団長の声でした。
膝から力が抜けて、私はその場にしゃがみこみました。
「無事ですか」
『ああ。神獣も無事だ。黒翼竜隊も、大きな損耗はない』
「よかった……」
視界が滲みました。
よかった。
本当に、よかった。
指輪の向こうで、団長が小さく息を吐く気配がしました。
『フィオナ』
「はい」
『遅くなってすまない。こちらの処理が終わり次第、迎えにいく。帰ろう、二人で』
その穏やかな声を聞いた瞬間、胸の奥に詰まっていたものが、ようやくほどけました。
あの時、意識が薄れゆく中で聞いたのは、後から駆けつけた彼の声でした。
──遅くなって申し訳ございません。
その声は、固く、低く、震えていました。
けれど、今は。
私は涙を拭うことも忘れて、指輪に向かって言いました。
「じゃあ、抱きかかえて黒翼竜に乗せてくれますか?」
思い出を、幸せなものに塗り替えたい。
そう思ったのです。
少しの沈黙がありました。
彼も思い出したのでしょう。
命の火が消えそうなリアを、まるで壊れ物に触れるように、黒翼竜に抱えあげた時のことを。
それから、指輪の向こうで、かすかに笑う気配がしました。
『君の望みは全て叶えると言っただろう』
その言葉に、私はようやく、泣きながら笑いました。
次回最終話です。




