第20話 夏はもうそこ
朝は苦手です。
でも朝活をしないと勉強が追いつきません。
六時から霊獣医試験の教科書と睨めっこをし、ごはんを食べて八時に出勤です。
それから夕方五時まで働いて、少し残業をして、軽い夕飯をとったらもう講義の時間です。
今日はエルネストさんの「翼狼の神経回路に及ぼす聖力の影響について」です。
生徒は十人ほど。
隣に座るエリンさんがあくびをします。
「昨夜、霊鹿の出産があったからあまり眠れなくて……」
そうなんです。
出勤したら可愛い赤ちゃんがいてびっくりしました。
「エリンさんが夜勤だったんですね。お疲れ様です。赤ちゃん元気に生まれてよかったですね」
「ほんとにね。難産だったからひやひやしたわ」
「ちょっとそこー、僕の話聞いてるー?」
エルネストさんが講義台から折り紙の翼狼を投げてきました。それはふわふわと宙を舞い、エリンさんの前に着地しました。
エリンさんはぱちぱちと拍手をし、
「まあ! 可愛い! あなた意外な才能があるのね!」
と、にこにこ笑っています。
「お褒めにあずかり恐縮です。じゃあエリンさん、翼狼を大人しくさせるだけの聖力値は?」
エルネストさんが眼鏡の奥で目を細めます。
「え……っと、五百……だったかしら」
「はーい、不正解です。じゃあ、フィオナちゃんいってみよー」
……えっ?! 私ですか?!
確か五日前くらいに習いましたよね?
手元にある聖力計測器をいじくりながら、記憶を掘り起こします。
「これ答えられなかったら宿題増やすよ? レポート一本、全員ね」
ざわっと空気が揺れ、皆さんの視線が集まります。
ああっ、責任重大です!
確か、リオを呼び寄せた時はこれくらい……。
私は計測器に聖力を叩き込みました。
──ぱりん。
ひとつ、音がして。
次の瞬間、教室中の計測器が一斉に砕けました。
……え?
しばらく、何が起きたのか分かりませんでした。
「えっ?! 何、やだ、お化け?!」
エリンさんの声を皮切りに、ざわざわと動揺が広がっていきます。
あぁぁぁぁ……私、やらかしてしまったみたいです。
神殿にいる時から、よくアルに言われたものです。
『あなたはもう少し理論や数値を勉強するべきです。勘や感覚だけでは後進が育ちません』
「んー。ある意味正解なんだけどね」とエルネストさんが苦笑を浮かべます。
「でもこれだけの力を使える人が、この世に何人いると思う?」
そして魔導板にさらさらと数式を書き始めました。
「だからその霊獣ごとの神経回路に及ぼす聖力について、勉強しなくちゃいけないんだ。聖力の種類や振動を変化させることによって、莫大な量を消費をしなくても翼狼にきちんと作用するからね」
私は目を瞬きました。
──そうなのですね。
つまり聖笛にもそれは反映されていて、だから少ない聖力でも言うことを聞くんですね。
私、今とっても感動しています!
「ちなみに」とエルネストさんが計測器の残骸を指差します。
「これ結構お高いんだよね。団長に請求しておくよ」
えっ……えぇぇぇぇぇぇえ?!
「わ、わた、私が……!」
「はーい、じゃあみんなで計測器片付けようか」
エルネストさんが言葉を被せるように遮りました。
それからまた講義を受けて、終わったのは夜の九時でした。
もちろん外はすっかり暗く、空に星が瞬いています。
「んー! 疲れたわ」
エリンさんがぐっと体を伸ばします。
「君は半分以上寝てたじゃないか」
エルネストさんが苦笑しながら肩をすくめました。
「もう暗いから送って行こうか?」
「私は大丈夫よ。今日は夫がそこまで来てくれるから」
「……そっか」
なんだかエルネストさん、寂しそうですね?
「じゃあフィオナちゃんだけでも送って行くよ」
「私も大丈夫ですよ? すぐそこですし」
「何かあったら僕が怒られるじゃないか」
……誰にです?
私たちはエリンさんと別れて歩き出しました。
すると突然、エルネストさんがこんなことを言い出しました。
「フィオナちゃんってさ、聖女にならないの?」
「………………」
「…………」
……たっぷり一分は固まっていたでしょうか。
驚きすぎると言葉を失うというのは本当ですね。
いえ、そんなことは今どうでもいいのです。
これはどういう意味でしょう?
通報……されるんでしょうか?
心臓が痛いくらいに打っています。
「どうしたんだい? 暴走リオを止めてくれた時から思ってたんだ。なんで神殿に行かないのかなーって」
「あ、あれは超強力聖笛で……っ!!」
……いえ、違います。
習った今なら分かります。
最適な状態の聖笛で止められなかったのなら、力技でごり押すしかないのです。
つまりリオを止めた時からエルネストさんは分かっていて……ということはアルもですよね?!
「わ、私、神殿には行きたくなくて……」
「そうなのかい? 聖女って女の子憧れの職業だし、このまま霊獣医を勧めていいのかなーって思ってさ。でも行きたくないなら仕方ないね。フィオナちゃんはうちのものだ」
エルネストさんはにこにこ笑って私の手を取りました。
「いやー、安心したよ。神殿に掻っさらわれたらどうしようかと。ずーっと気になってたんだよ」
私はエルネストさんと見つめ合いながら、目を瞬かせました。
……あれ?
神殿送りにならないんですか?
私、ここにいてもいいんですか?
「団長にも聞いたんだけどさぁ、神殿なんかに報告する義務はない! って言ってくれてたんだけど……いや、むしろ怒鳴られたよね。理不尽だよねぇ」
……アルも、そんな風に。
胸の底が熱くなりました。
聖女じゃない私でも、少しは皆さんのお役に立てているのでしょうか。
「ありがとうございます、エルネストさん」
心の紐が、ふっと緩んで。
気づいた時には、エルネストさんに飛びついていました。
少し驚かれてしまいましたが、すぐにぽんぽんと背中を叩いてくれます。
「いやー、こちらこそありがとね。次は翼竜に最適化する聖笛を作りたいんだけど、難しくてさぁ。フィオナちゃん手伝ってくれる? ピエラにも聞いてさ」
「はい!」
なんだか、もう一人の兄みたいです。
過保護じゃないけど、ちゃんと見守ってくれる優しいお兄ちゃん。元気にしてるでしょうか。
「ところでフィオナちゃん、そろそろ離れた方がいいと思うよ? ほら」とエルネストさんが指差します。
「君の保護者が睨んでる。残業お疲れさまー」
「誰が保護者だ」
いつの間にか、アルが横に立っていました。
「もう遅いんだから早く、」
その言葉が終わる前に。
私はアルに抱きついていました。
「……っ?!」
息をのむ気配が伝わってきます。
ごめんなさい、でも嬉しくて。
「……エルネスト、これは……なんだ」
吐息混じりの掠れた声です。
「いやー、よっぽど神殿に行きたくなかったんじゃないかなぁ」
エルネストさんは首を捻りながら苦笑しています。
「ま、保護者が来たなら僕は帰るよ。じゃあまた明日ね」
「おい、待て……」
アルの制止などどこ吹く風とばかりに、エルネストさんは手をひらひら振って行ってしまいました。
私はアルから離れませんでした。
不思議と心が落ち着いて、まるで最初の頃のように親鳥に包まれているようです。
さわさわと、風が若葉を揺らします。
トレシュニャの並木道は、もうすっかり夏の装いです。
「……神殿に連れて行かれると思っていたのか?」
アルの問いに、私は無言で頷きました。
「優秀な人材をくれてやるわけがないだろう」
「……でも、聖女拒否は犯罪で……」
「法改正したのを知らないのか?」
……はい?
「だから日頃から勉強してくださいと……いや、こっちの話だ」
「い、いつの間に……?」
「霊獣飛行部隊の拡充とともに、こちらも聖力の高い人材が必要でな。数年前、法改正に持ち込んだ」
さらっと言ってますけど、それってすごく大変だったのでは?!
と言うかそれなら……。
「言ってくれたらよかったじゃないですか!」
「ちゃんと新聞を読め」
「うちは貧乏なんですからそんなもの買えません!」
「……なるほど。それはすまん」
ふと目を見合わせ、一拍。
どちらからともなく笑いが広がりました。
「私、もっとちゃんと勉強しますね。聖騎士団のお役に立てるように」
「それは頼もしいな」
アルはそう言った後、少しためらうように続けました。
「……でも、今の君のままでいい」
……どういう意味でしょう。
「ありがとうございます?」
とりあえずお礼を言うと、苦笑されてしまいました。
でもその目がすごく優しくて──
私は慌ててアルから身を離しました。
違いました。
この人は親鳥じゃないんです。
こんなことしたら私がダメージを食らうんです。
「なんだ、もういいのか?」
からかうように笑われます。
悔しいですが、反撃の手段がありません。
「か、帰りましょうか」
「……そうだな」
静かな並木道に、月に照らされた影が落ちます。どこからか、微かに甘いオレアンダルの花の香りが漂ってきます。
その香りに、ふと、昔のことを思い出しました。
あれは、真夏の夜のこと。
夏祭りの花火が見たいとせがんだけれど、アルに却下されたんですよね。早く寝てくださいって。
だから私はこっそり神殿を抜け出して広場へ行って、でもアルに捕まって。その時ちょうど最後の花火が上がって──
私は歩きながら夜空を見上げました。
……誘ってみてもいいでしょうか。
花火を一緒に見ませんか?って。
「……あの」
「ん?」
横顔を見上げると、彼がこちらに視線を向けました。ただそれだけのことで、心臓が跳ねました。
…………無理です。言えません。
「どうした?」
うつむいてしまった私の頭の上に、気遣うような声が落ちてきました。
たった一言、夏祭りに行きましょうと言うだけなのに。どうしてこんなに難しいのでしょう。
どきどきが止まらなくて、頭が真っ白になりました。
──怖い。
拒絶されるかもしれないと思うと、何も言葉が出てきません。
結局、何も言えないまま、家に到着しました。
「じゃあ、おやすみ」
その静かで低い声に、胸がきゅうっとなります。
「おやすみなさい。あの、ありがとうございました」
勇気のない私にはそれが精一杯でした。
遠ざかっていく背中を見ながら、私は扉にもたれて、深く息を吐きました。
──夏はもう、そこです。




