9. エーレンハイムは、頭を下げます
五十日目の朝、厨を覗けば、そこは静かな戦場である。ザビーネは胡桃を一粒ずつ噛んで検分し、蜂蜜の壺を三つ並べて香りを比べている。
「勝負って、焼き色みたいに顔に出るのね。まあ、あたしのことだけど」
誰にともなくそう言い、袖を肘までまくる。竈の火まで、いつもより行儀よく燃えている。
◇
午後、四頭立ての馬車が、揃った蹄の音を響かせて門を潜る。陽をはじく車輪の金具まで磨き上げた、家名を乗せて走るための馬車である。砂利を噛む音の重さに、袖の中で指先が冷える。
降り立った大奥様は、銀灰の髪をきっちりと結い上げ、供を二人従え、玄関から客間までの廊下を検分の歩幅で進んでこられる。磨いた床に薄く映るご自身の影まで検分なさるような歩き方である。それから、わたくしの前で足を止め、口を開かれる。
「エーレンハイムは、この家の有り様を確かめに参りました」
挨拶より先に家名が出る。この方は、昔からそうである。
「ようこそおいでくださいました。お茶の支度は、滞りなく整っておりますわ」
「その前に。あなた、離縁をお取り消しなさい。家名に傷が付いています」
「その儀は、わたくしの勘定には入れられませんわ」
「では、せめて縁組の仲立ちをなさい。それから、あの台所の娘――ザビーネをお返しなさい」
「その答えは、ご本人にお尋ねになるのが筋かと存じますわ」
茶会の卓には、ザビーネの焼いた蜂蜜と胡桃の菓子が並んだ。薄く焼けた縁は飴色で、生地の温かな香りに蜂蜜の重い甘さと胡桃の香ばしさが重なり、客間の張りつめた空気をほどいていく。大奥様は一口で置くおつもりだったらしい。その手が、二口目で止まらなくなる。
「……この菓子は、この娘が焼いたのですか?」
「あたしです、大奥様。胡桃は割りたて。固いのがお嫌いかと思って、挽いた粉みたいに細かくしました」
返事はない。ぱちり、と扇だけが一度閉じて、また開く。
「ザビーネ。エーレンハイムの縁に連なる娘が、竈の前に立つなど」
「竈の前なら、ちゃんとご飯が食べられます。こっちでは、働いた分だけ給金が出るの。焼き立てを味見できる、おまけも付きます。……証文がありますから、帰りません」
給仕はハンナが回す。皿の下げ方ひとつ、匙の向きひとつ、磁器の触れ合う音さえしない。茶が減れば湯気とともに注がれ、注がれたことにも気づかせない。大奥様の視線が、その手際を二度、追いかける。三度目には、追うのをおやめになった。目が認めたものを、口で認めるとは限らない方である。
次に、先生が綴りを抱えて進み出る。喉を鳴らしても息は浅く、力の入りすぎた指に挟まれ、胸の前の綴りがみしりと軋んだ。
「『証は写しに如かず』と書物にありますので――大奥様、小生が十日ごとにお送りした文の控えでございます」
「……宛先は、都の屋敷のままにしてございます。ですから、その、読み手はずっと……大奥様でいらしたのでございます」
「読み上げなさい」
「承知いたしました。――お給金は滞りなく。侍女ハンナ、読み書きの進み著しく。台帳の検め、遺漏なし」
「もう結構」
供の二人が、そっと視線を交わした。片方の眉がわずかに上がり、すぐ伏せられる。検分に来た家の検分の綴りが、誉め言葉ばかりなのだから無理もない。わたくしも茶器へ目を落とし、口元を湯気に隠す。
大奥様は扇を閉じ、しばらく庭を見ていらした。噴水の涸れた庭である。それから、卓に端を揃えた紙の束へ目を戻される。
買い戻しの証文――持参金の金貨八百枚と、わたくしの印。離縁の証書。雇いの証文の列。そして息子の借りの総高、金貨三十二枚の勘定書き。わたくしが一枚ずつ積み重ねた日々が、いま紙の束の重みになっている。
雇いの証文の、いちばん新しい一枚の前で、大奥様の目が止まった。写字生、十日ごとに銀貨一枚。署名は、あの伸びやかな筆である。家名を主語にする方が、その名前だけは、最後まで口になさらなかった。
代わりに、袂から畳んだ紙が出る。開き癖のついた折り目の柔らかい、ザビーネの送った目録の写しである。
「目録には、銀器は帳のとおり、と書いてありました。足りないものも、その行き先も……エーレンハイムは察しています」
断定をどこにも書かなかった写しが、読んだ側の中で、勝手に答えになっている。写した側の罪では、やはりないのである。
「家名だけで切れる紙は、もうございませんの。女主人の印が空いたままでは、勘定を閉じられませんもの」
「存じています。……この、ひと月あまり、都の屋敷を回してきた金が、どこから出たものか。エーレンハイムの金ではありません」
誰の財布か、までは言わない。言えないのだろう。家名で話してきた人が家名で払えなくなったとき、その先の言い方を、この方はまだ持っていない。閉じた扇を握る指の節だけが、白い。
やがて、大奥様は椅子を引き、お立ちになる。結い上げた銀灰の髪が、窓の光を受けて白く輝く。
「エーレンハイムは……あなたに、頭を下げます」
言葉と同時に、その人は本当に、深く頭を下げた。絹の衣擦れの音だけが、息を止めた客間に細く長く残る。家名でしか話せない人が、家名ごと体を折ったのである。供の二人は目を丸くしたまま、声もなく主を見ている。耳の奥では、自分の鼓動ばかりが大きい。
下げた頭のつむじに、白いものが増えていた。七年前の婚礼の日、上座から検分の目でわたくしを見下ろした人の、これがいちばん近くで見た姿になる。あの日には遠かった背中が、いまは手の届くところで小さく息をしている。
「侯爵家の帳面を、あなたの手に。……家名では、あなたを雇えません。ですから」
一度だけ息を整えて、その人は続ける。
「マルグレーテが、雇います。マルグレーテの寡婦産で。――家宰として」
家名しか誇るもののなかった人が、初めて、自分の名を主語に置いた。名が家名に勝つ音を、わたくしはこの日、初めて聞いたのだと思う。息を吸うと、胸の奥で長く固まっていたものがほどけ、目の縁がじわりと熱くなる。
「お返事は、次の給金日に、改めて伺いに参ります」
「その菓子を……包みなさい。ふたつ」
「はい、大奥様。菓子は焼き立てがいちばんですから、そちらを入れます」
玄関先の見送りで、大奥様は菓子の包みを供に持たせてお帰りになる。買って行く、とはおっしゃらなかったけれど。
証文はそのとき、この帳場の卓で。そうお答えして、わたくしは客間の灯を落とす。灯を消しても、頭を下げた人の形は、しばらく目の奥に残っている。わたくしは冷えた卓に、そっと手を置く。




