8. 雇い主を、検めますわ
四十五日目、わたくしは朝の冷気を裾にまとったまま、代官所の高い敷居をまたいだ。雇われる前に、雇い主を検める――あの朝、自分の口で告げた言葉を、ようやく果たしに来たのである。
道中は馬車で小半刻。開けた窓から乾いた土の匂いが入り、刈り入れの済んだ畑が流れていく。この三分の一は、七年前にわたくしの持参金が買い戻した土地である。数えながら通ると、道まで帳面の罫に見えてくるのだから、性分というものは度し難い。
石造りの部屋は、暖炉より書架のほうが幅を利かせ、冷えた壁に墨と古い革の匂いが染みついている。出された茶は薄いが、両手で包むと指の冷えがほどけるほど熱い。官舎住まいの茶である。
「で、検めるなら、何から見るんだ?」
「入りと出の突き合わせからですわ。お茶を一杯いただくあいだ、口数は差し引いていただけますと助かります」
帳面は、固い。字は素っ気ないが、数は嘘をつかず、入りと出が行儀よく手を繋いで並んでいる。頁を繰るたび乾いた紙が小さく鳴り、指先には埃ひとつ付かない。上納の日付は一度も遅れず、橋の普請の払いには受け取りの控えまで揃っている。検める側の背筋が伸びるような帳面というものが世にはあるのだと、七年目に初めて知ったのである。
けれど、傷はひとつだけ残っている。
白いままの行が、年の締めごとに、同じ場所で口を閉ざしている。その白さには見覚えがあった。わたくしの台帳にも、七年、同じ白が居座っていたのである。他人の帳面の中で、自分の古傷に出くわすとは思いもしなかったけれど。
「マティアス様。ご自分のお給金の行だけが、七年、白いままですわ」
「……ああ。茶は、まだ要るか?」
「いただきますわ。その言い逃れですと、長丁場ぶんを見込んでおく必要がございますもの」
ほどなく、薄い茶が、湯気だけは濃くなって戻ってくる。器を置くあいだ、彼は白い行から目を外している。
「代官のお給金は、年に金貨十二枚。実際にお取りになったのは年に二枚だけで、残りは名も付かず、帳と箱のあいだに浮いたまま――締めて、金貨七十枚ですのよ」
「要らん。官舎と賄いが付いてる。それで足りた」
「要るか要らないかは、勘定に入りませんの。これは帳面の話ですわ」
彼はしばらく黙り、帳面の角を押さえた節の太い指も動かさなかった。窓の外で、荷馬車の車輪が石を噛む。やがて彼は顔を上げ、結論だけを返す。
「数えなかったのは俺だ」
わたくしは羽根を借り、墨壺の縁で余分な墨を落として、その行へ書き入れた。名前。七年。年に十枚。墨が乾くのを待って、帳面をそちらへ向ける。
「我慢は、帳面に載せて初めて、人を守る勘定になりますのよ」
名と額の付かない我慢は、誰のことも守らない。七年、自分の行を書けなかったわたくしの指には、白い紙の冷たさがまだ残っている。だから、間違いはない。
「……書けば、どうなる?」
「まとまれば金貨七十枚、ご自分で稼いだ分としてお取りになれますのよ」
「……考えとく」
窓から傾いた光が差し込み、名前の付いたばかりの白い行を照らしている。
「金というものは、箱に七年も寝かせておく勘定ではございませんのよ」
「あんたから金の説教を聞く日が来るとはな」
「毎日でも、お聞かせいたしますわ」
言葉より先に挟まる長い間と、こちらを見ようとしない横顔。考えとく、がこの人なりの受け取り方だということくらい、義姉を七年やっていれば分かる。彼は名の入った行を指でなぞってから、わたくしの顔を見た。
「……で。うちで働く気にはなったか?」
「なりましたわ。ですけれど、先にわたくしのお値段を勘定していただきませんと」
「なら、言ってみろ」
「わたくしの値は、十日ごとに銀貨三枚ですわ」
ひと月あまり前、自分の行に初めて書いた値は、銀貨一枚。あのときは、書くだけで息を整える必要があった。いま同じ値は声になって、思ったよりまっすぐ部屋を渡っていく。値というものは、人前で口に出すたびに、少しずつ育つものであるらしい。
「銀貨四枚だ。うちの帳面は、それだけ腐ってる」
「では、四枚で。……お値切りどころか上乗せなさる方は、初めてですわ」
「高い買い物だ」
「お値打ちですのよ。すぐに元が取れたと、お分かりになりますわ」
どこが腐っているかと言えば、たった今名前の付いた、あの行のことだろう。自分の傷を値札に換えて、人の値を上げる。そんな不器用な値の付け方を、わたくしは初めて見る。
証文は、彼が書いた。乾いた羽根の音を立て、素っ気ない字が条を一つずつ埋めていく。わたくしの名を書くところで羽根先だけが一度、宙に止まった。ふくらんだ墨が紙へ点をひとつ落とす。石造りの静かな部屋で、その小さな点の落ちる音まで聞こえた気がする。
「……悪い。そこ、書き損じた」
「点の一つくらい、帳面は損には数えませんわ」
「……十日後も、また来るのか?」
「検算の日ですもの。もちろん、まいりますわ」
「……次は茶を濃くしとく。約束はせん」
勤めは、十日ごとに一日、検算の日を置くと決めた。証文の職分の欄には、検算役、と素っ気ない字が並んでいる。どこまでも素っ気ないのに、わたくしの名の周りだけ、行間がわずかに広い。書き損じの点は、乾いてもなお名前の横に残っている。消されなかった小さな黒に、指の先がゆっくり温まっていく。
帰りの馬車で、窓の外の畑をもう一度数えた。低くなった日の光が、刈り跡をやわらかな金色に変えている。数は行きと同じである。当たり前のことなのに、今日はすこし可笑しくて、口元がわずかにゆるむ。
◇
夕、帳場へ戻ると、ハンナが算盤を弾き直していた。珠の音が、いつもより一往復多い。
「商会の金貨三十枚に、燭台の付け替えが二枚。締めて、金貨三十二枚です。……給金日で、六百四十回。増えました」
「ええ、増えましたわねえ」
「……写字生様。ここ、書き入れておいてください」
写字生は何も言わない。差された行を写す羽根の音だけが、いつもより少し重い。増えた数字も、事実は事実である。書かなければ軽くなるものではない。
戸口で、門番の張った声がする。算盤の珠と写字生の羽根が、同時に止まる。都から先触れ――五十日目の給金日に、大奥様がおいでになる。




