7. 給金日が、六百回
四十日目の朝、夜の冷えを残した帳場へ淡い陽が差しはじめたころ、給金の列の最後に、写字生が並んだ。
朝の帳場は冷えきっており、銭箱から出したばかりの銀貨は、肌へ貼りつくような冷たさを指先に残している。列の顔ぶれが、息を白くしながら、ひとりずつその冷たさを受け取ってゆく。
差し出された掌へ、わたくしは銀貨を一枚載せる。硬い金属が皮膚に触れた瞬間、彼の指がかすかに縮んだ。彼はその丸い光を、まばたきもせず長いこと見つめている。七年、数え切れない金貨を右から左へ流した人の、薄い墨と細かな傷が残る掌。その上では、小さな銀貨一枚が朝の光を集め、妙に大きく見えるのである。
握るでもなく、掲げるでもなく、彼は銀貨を上着の内隠しへ入れて、列を離れた。しまった場所を布の上からそっと押さえた指には、まだ銀の冷えが残っている。歩き出す前に、掌を一度ひらいて確かめたのは、見なかったことにする。その背中を、誰も笑わない。衣擦れと足音だけを聞いている。その静けさが、この帳場の作法になりつつあるのだ。
午の鐘の前に、ブラント商会の番頭ゲルハルトが参上した。六日前の夕にも門前まで来た男で、今日も甘い整髪油と外気の匂いを一緒にまとっている。あの日は夕餉時ゆえ、お引き取りを願った。出直すなら金のある給金日を選ぶあたり、さすがに商人の勘定というものである。
恰幅のよい体を揉み手で小さく見せ、油を塗ったように滑らかな腰の低さで敷居を跨ぐ。供に持たせた布包みを、かすかな布擦れの音まで慎ましく、まず恭しく卓へ載せた。
「こちら、お納めものでございます」
布の中身は、銀の燭台一対である。見慣れた家の意匠が、他人の手つきで丁寧に包み直されている。曇りひとつなく磨かれた銀は、窓から射す朝日を冷たく弾き、かえって白々しい。見覚えのある曲線を目でなぞると、指先まで薄い冷えが這ってくる。
「先日は、手前どもの帳面に不調法がございましたようでして。ええ、代官所様のお手を煩わせるほどのことではございません」
わたくしは燭台を受け取り、台帳の貸しの行へ線を一本引いた。紙を引っかく羽根先の音が、静かな帳場に細く響く。現物で戻ったものは、金では取らない。台帳に残すのは、言い訳でも顔色でもなく、動かしようのない事実だけである。
戻った燭台は、今夜から食堂に立てることにする。磨かれすぎた銀も、火を灯せば食卓の色になじむだろう。物にも、置かれるべき場所へ座り直し、もう一度役目を果たせるところがある。
「それで、本日のご用向きは?」
「はい。こちらの……写字生様が、手前どもよりお借りのままとなっております、金貨三十枚の件でございます。いえ、耳を揃えてとは申し上げません。ですが、お家の外聞にもお値打ちがございましょう。醜聞は、お互いさまにとりまして損にしかなりませんので」
声だけは絹のように柔らかく、耳の表面を撫でてゆく。それでいて値段の話になると、急に言葉の目が細かくなり、こちらの息継ぎまで銭に換えようとする。
番頭は懐から、絹紐を掛けた紙をちらりと見せた。紙の角が衣をこする乾いた音とともに、赤い紐だけが誘うように光る。
「なんでしたら、たいへん良いご縁組のお話も、手前どもで大切にお預かりいたしておりますもので」
わたくしは、その紙へは目も向けない。目を留めれば、それだけで紙に値が付く。向けないことが、いちばん安く、いちばんよく届く返事である。絹紐の赤が視界の端でしばらく揺れ、やがて懐へ戻っていく。
「順に勘定を合わせましょうね。まず、あの紙は通りませんの。印がございませんもの」
「はい、それはもう、重々承知いたしております」
「では、次の勘定ですわ。あの金は、この家の勘定ではございませんの。お借りになった方ご自身の勘定です。ご本人はいま写字にかかっておりますから、お取り立ては、紙でなさる筋でしょうね」
「とはおっしゃいましても。お給金がこちら様から出ておりますなら、手前どもといたしましては、そこから頂戴するほかございません。なにぶん金貨一枚は銀貨二十枚、締めて銀貨六百枚という、たいそう大きなお勘定でございますから」
帳場の隅で、算盤の珠が鳴った。乾いていて、迷いのない音である。ハンナが珠を止め、顔を上げる。
「……給金日が、六百回要ります」
「あら。十日にひと粒ずつ、六百回ですって。お取り立てにおいでになるなら、その勘定、お孫の代まで繰り越しですわねえ」
帳場の空気が、一度だけ笑いの形に緩んだ。声を立てた者はいない。それでも、張りつめていた肩がわずかに下がり、堪えた吐息のぬくもりが冷えた空気へ混じったので、緩んだのはよく分かる。
番頭の揉み手が止まり、重ねた指の間に湿った光が浮かぶ。算盤に負ける商人を、わたくしは初めて見た。帳場の算盤は、並べられた数をそのまま音にする。嘘をつかないぶん、容赦というものも知らないのである。
「恥の買い取りは、いたしませんの。売りにも出しませんわ。お引き取りの値など、なおさら付きませんことよ」
そこへ、開いた戸から声が鋭く割り込む。外の冷気と革と馬の匂いが流れ込み、卓の紙を震わせた。戸口に立っていたのは、外套の肩に朝の湿り気を残したままの義弟である。
「その紙は通らん。うちで一度突き返してる。ゲルハルト、兄の名で貸すなと言ったはずだ」
「これはこれは、代官様までお揃いあそばされまして。まことに恐れ入ります」
番頭は深々と腰を折り、その角度を崩さぬまま、靴底を擦らせて後じさりに戸口へ向かった。下げた頭からも、こちらの出方を量る目だけは消えない。商人というものは、退き際の足幅まで勘定でできているらしい。
「本日のところは、これにて失礼つかまつります。ああ、燭台の金貨二枚につきましては、旦那様へのお貸しに付け替えでございます。それと――お払いは、いつでも」
「それは、けっこうな勘定ですわ」
「手前どもは、別の紙を、当たらせていただきますとも」
乾いた掌をこする音だけ残して、番頭は消えた。別の紙。その一言だけが、磨き上げた商人の声からこぼれた地声である。閉じた戸の向こうから妙に長く尾を引き、わたくしの指先には、先ほど触れた銀貨より冷たいものが残った。
「……別の紙が、まだ勘定にあるのですって?」
「気を付けろ。兄上の借りなんぞ、都に行けば束で買える」
義弟は言うだけ言って、冷たい風を外套に巻きつけ、また馬の人になる。窓の外で蹄の音が石畳を打ち、やがて朝の遠くへ溶けていった。そのあとも帳場の算盤は、しばらく誰にも触られずにいる。別の紙、という言葉だけが、冷えた銀貨のように胸の底へ残っている。




