6. 行き場が、ないんだ
三十四日目の昼下がり、薄い日差しの下、その人は鞄一つを提げて門に立っていた。
出て行った朝より、ずいぶん軽い身の上である。外套の裾は乾いた泥で白く汚れ、頬はこけ、顎には見慣れぬ髭が浮いている。汗と埃の匂いが、門越しにかすかに届く。それでも敷居の内へは爪先ひとつ入れない。門の外に立ったまま、掠れた声だけが届く。
雨の夕にこの門をくぐったあの日、この方の後ろには、髪から雫を落とす娘がひとり立っていた。今日の後ろには、誰もいない。連れて来る側から、置かれる側へ。ひと月あまりで、人はここまで立つ場所を変えるものらしい。わたくしの掌には、門扉の金具の冷たさだけが残る。
「行き場が、ないんだ」
行き場がない、という言葉を、今度は彼が自分のために使った。
「……入っても、いいのか?」
「お客様ではなく、御用の方としてでしたら」
「……都から、歩いて来たんだ。荷物は……これ、これだけだ」
「さようで。まずは、お掛けになって」
靴の踵が、片方だけ斜めに減っている。足を引きずったのか、立つ姿もわずかに傾いていた。歩き方まで、知らない人のようである。
「……世話に、世話になる」
「いいえ。働いていただきますから、世話という勘定にはなりませんの」
わたくしは門を開けさせ、帳場へ通す。茶は、湯気の立つものを出した。冷えた指がほどけるよう、いつもより少し熱い。問い詰めはしない。勘定の前に人を責めるのは、順序が逆というものである。
茶碗を持つ手の甲に、見覚えのない擦り傷がある。赤く裂けた跡を湯気が撫で、指は器の熱を逃すまいと丸まっている。二十日前まで、荷物ひとつ自分で提げたことのなかった手である。廊下の奥からハンナが湯を運んできて、一度だけこちらを見る。何も問わず、器の澄んだ音だけを残して下がった。
「君なら――」
言いかけて、彼は口をつぐんだ。唇の端だけがかすかに動く。それから卓の木目へ目を落とし、初めて聞くほど低い声で、言い直す。
「……僕は、僕は働いたことがない。だが、字なら書ける」
「存じておりますわ。何にでも、よくお書きになりますもの」
彼の耳が赤くなる。うつむいた白い首筋には、旅の垢が細く筋を引き、その下で脈が忙しく打っている。
「承知しました。では、正式に雇い入れます」
顔を上げた彼の目が、意味を掴みそこねて泳ぐ。瞳はわたくしと証文の間を行き来した。この台詞を、彼は玄関広間で一度聞いている。あのときは、他人事の顔で聞いていた。
「お仕事は、写字生ですわ。帳面と証文を写していただきます。読める者はこの家にも増えましたけれど、書ける者は、まだ足りませんの」
「給金は十日ごとに銀貨一枚。この家では、それが入りの値ですわ」
「……ハンナと、同じか」
「あの子は今、二枚になっておりますのよ」
彼は口を開き、息だけを漏らして閉じる。数の意味を、奥歯で噛んで飲み込んだような顔である。茶碗に添えた親指が、同じ場所を何度も擦っている。
「それから、最初の期は日割りにはいたしませんの。うちの台帳では、端数を持たない決まりですから」
「……ああ、分かった」
「起きる刻は六つの鐘、休みは十日ごとに一日。お部屋は、離れの二階でございますわ」
「……離れ、離れか。……ああ、いや。それでいい」
「母屋より朝が静かですから、差し引きは悪くございませんわ」
条件を聞くたび、張りつめていた彼の背中が少しずつ椅子に馴染み、軋んでいた脚も静かになる。居場所は、起きる刻と休む日と寝台から形になるらしい。
「……休みの日を貰うなんて、初めてだ」
「ご自由ですのよ。門の外でも、中でも。お使いにならない自由まで、きちんと含まれておりますわ」
自由、という言葉に、彼は少したじろいだ顔をする。伏せたまつげの影が揺れ、茶碗へ伸びかけた手が宙で止まった。
証文を裏返す。この家の則は、一行しかない。彼は自分の声でそれを読み、読み終えてから、長く黙った。窓の外で鳥が二度鳴くほどの沈黙である。羽音が遠ざかっても、紙の上の影は動かない。自分の寝間だった部屋に、もう入れない一行である。
黙っているあいだ、彼の指は紙の縁を押さえたままだった。震えてはいない。ただ、離しもしない。力の集まった指先だけが、紙より白くなっている。
「……この裏書きは、あの日の」
「ええ。あの日、あなたがご署名くださった証文と、同じ形ですわ」
「……よく、よくできた家だ」
「おかげさまで、帳尻の合う家になりましたわ」
「こちらの条件で、よろしくて?」
彼は答える代わりに羽根を取り、署名した。紙を掻く乾いた音が、帳場へやけに大きく響く。それから、乾かぬ名を見つめて顔を上げる。
「…………はい。奥様」
君、と呼びかけた男は、そう言い直した。証文の書式どおりの呼び方である。言い淀んだ息が、まだ卓の上に残っている。書式というものは、呼び方に迷う人のためにこそある。よくできた発明だと、つくづく思う。
奥様、という二文字が、思いのほか静かに胸へ落ちた。音もなく沈んだはずなのに、胸の内側には細い波がいつまでも残る。七年呼ばれた「君」より、雇い入れた日の「奥様」のほうが、わたくしの名に近い。妙な勘定だけれど、帳面には載せようのない類の話である。
最初の仕事には、給金台帳の写しを与えた。ほどなく、彼の羽根が、一つの行の前で止まる。写字生、十日ごとに銀貨一枚。その二行下には、貸しの行がある。燭台一対、買値は金貨三枚――根拠の欄には、商会の控えの写しが貼ってある。差し込む光が金額の上を滑り、羽根先の墨が丸く膨らんだ。
「……この行も、写すのか?」
「帳面は、端から端まで写すものですわ」
「……この貸しの、利子は。利子の、勘定は」
「取りませんの。うちは質屋ではございませんもの。期日どおりでしたら、それで勘定は済みますわ」
彼の羽根が、貸しの行の上で一拍だけ迷って、動き出す。紙を掻く音とともに、細い文字が借りた額へ向き合っていく。
「……写しは、一日にどれだけ書けばいいんだ?」
「帳面が尽きるまで、ですわ。ご心配には及びません――尽きた例しはございませんの」
彼は写した。一字も抜かさず、綺麗な手で。整った文字は、外套の泥も手の傷も知らぬ顔で並ぶ。仕上がりを検めるのはハンナである。
「申し訳ありません……三行目、点がひとつ落ちています……」
「…………分かった。直す」
直しながら、彼はハンナの手元を盗み見ている。羽根を握る指の角度まで追う目は、食卓で彼女を見過ごしていたころより、ずっと低いところにある。
「はじめから読めたわけでは、ないんだろう?」
「二十日と少しですわ、あの子は。羽根の持ち方から始めましたの」
「……僕より、早いんだな」
「比べるお相手を、間違えていらっしゃいますわ」
それきり、羽根の擦れる音だけが続いた。読める者が検め、書ける者が写す。窓辺の光が卓をゆっくり渡っても、この帳場の順序は揺れない。座る場所も、口を挟む順も、それだけで決まっている。
この家の使用人の夕餉は、日のあるうちに始まる。傾いた日が卓布を橙に染める刻限である。その日だけ、卓の端の席がひとつ多い。
「……僕にも、夕餉は出るのか?」
「働いた方のぶんは、膳の数に入っておりますのよ」
彼は初めて、使用人の席でこの家の飯を食べた。匙が器に触れる音のほか、誰も何も言わない。ザビーネの煮込みだけが、肉と香草の匂いを広げ、卓の真ん中で堂々と湯気を立てている。
「……この煮込みを作ったのは、誰だ?」
「厨の見習いの手ですわ。入りの値は、あなたと同じ勘定ですのよ」
「……うまい、うまいな」
「そのお言葉、厨へきちんと伝えておきますわ」
彼は器へ目を落とし、それきり黙って匙を動かした。噛むたび、強張っていた頬がわずかにゆるみ、温かな湯気が伏せたまつげを濡らす。卓の向かいで、先生が書物を閉じ、ザビーネが匙を止めて、それぞれ一度だけ彼を見る。見て、何も言わずに続きへ戻った。二杯目は、自分でよそいに立つ。
膳が下がりきらぬうちに、門番がまた客を告げた。夕餉の温かな空気を断つように、呼び鈴が廊下を硬く走る。ブラント商会の番頭が、揉み手をしながら門前に立っているという。
7. 給金日が、六百回
四十日目の朝、夜の冷えを残した帳場へ淡い陽が差しはじめたころ、給金の列の最後に、写字生が並んだ。
朝の帳場は冷えきっており、銭箱から出したばかりの銀貨は、肌へ貼りつくような冷たさを指先に残している。列の顔ぶれが、息を白くしながら、ひとりずつその冷たさを受け取ってゆく。
差し出された掌へ、わたくしは銀貨を一枚載せる。硬い金属が皮膚に触れた瞬間、彼の指がかすかに縮んだ。彼はその丸い光を、まばたきもせず長いこと見つめている。七年、数え切れない金貨を右から左へ流した人の、薄い墨と細かな傷が残る掌。その上では、小さな銀貨一枚が朝の光を集め、妙に大きく見えるのである。
握るでもなく、掲げるでもなく、彼は銀貨を上着の内隠しへ入れて、列を離れた。しまった場所を布の上からそっと押さえた指には、まだ銀の冷えが残っている。歩き出す前に、掌を一度ひらいて確かめたのは、見なかったことにする。その背中を、誰も笑わない。衣擦れと足音だけを聞いている。その静けさが、この帳場の作法になりつつあるのだ。
午の鐘の前に、ブラント商会の番頭ゲルハルトが参上した。六日前の夕にも門前まで来た男で、今日も甘い整髪油と外気の匂いを一緒にまとっている。あの日は夕餉時ゆえ、お引き取りを願った。出直すなら金のある給金日を選ぶあたり、さすがに商人の勘定というものである。
恰幅のよい体を揉み手で小さく見せ、油を塗ったように滑らかな腰の低さで敷居を跨ぐ。供に持たせた布包みを、かすかな布擦れの音まで慎ましく、まず恭しく卓へ載せた。
「こちら、お納めものでございます」
布の中身は、銀の燭台一対である。見慣れた家の意匠が、他人の手つきで丁寧に包み直されている。曇りひとつなく磨かれた銀は、窓から射す朝日を冷たく弾き、かえって白々しい。見覚えのある曲線を目でなぞると、指先まで薄い冷えが這ってくる。
「先日は、手前どもの帳面に不調法がございましたようでして。ええ、代官所様のお手を煩わせるほどのことではございません」
わたくしは燭台を受け取り、台帳の貸しの行へ線を一本引いた。紙を引っかく羽根先の音が、静かな帳場に細く響く。現物で戻ったものは、金では取らない。台帳に残すのは、言い訳でも顔色でもなく、動かしようのない事実だけである。
戻った燭台は、今夜から食堂に立てることにする。磨かれすぎた銀も、火を灯せば食卓の色になじむだろう。物にも、置かれるべき場所へ座り直し、もう一度役目を果たせるところがある。
「それで、本日のご用向きは?」
「はい。こちらの……写字生様が、手前どもよりお借りのままとなっております、金貨三十枚の件でございます。いえ、耳を揃えてとは申し上げません。ですが、お家の外聞にもお値打ちがございましょう。醜聞は、お互いさまにとりまして損にしかなりませんので」
声だけは絹のように柔らかく、耳の表面を撫でてゆく。それでいて値段の話になると、急に言葉の目が細かくなり、こちらの息継ぎまで銭に換えようとする。
番頭は懐から、絹紐を掛けた紙をちらりと見せた。紙の角が衣をこする乾いた音とともに、赤い紐だけが誘うように光る。
「なんでしたら、たいへん良いご縁組のお話も、手前どもで大切にお預かりいたしておりますもので」
わたくしは、その紙へは目も向けない。目を留めれば、それだけで紙に値が付く。向けないことが、いちばん安く、いちばんよく届く返事である。絹紐の赤が視界の端でしばらく揺れ、やがて懐へ戻っていく。
「順に勘定を合わせましょうね。まず、あの紙は通りませんの。印がございませんもの」
「はい、それはもう、重々承知いたしております」
「では、次の勘定ですわ。あの金は、この家の勘定ではございませんの。お借りになった方ご自身の勘定です。ご本人はいま写字にかかっておりますから、お取り立ては、紙でなさる筋でしょうね」
「とはおっしゃいましても。お給金がこちら様から出ておりますなら、手前どもといたしましては、そこから頂戴するほかございません。なにぶん金貨一枚は銀貨二十枚、締めて銀貨六百枚という、たいそう大きなお勘定でございますから」
帳場の隅で、算盤の珠が鳴った。乾いていて、迷いのない音である。ハンナが珠を止め、顔を上げる。
「……給金日が、六百回要ります」
「あら。十日にひと粒ずつ、六百回ですって。お取り立てにおいでになるなら、その勘定、お孫の代まで繰り越しですわねえ」
帳場の空気が、一度だけ笑いの形に緩んだ。声を立てた者はいない。それでも、張りつめていた肩がわずかに下がり、堪えた吐息のぬくもりが冷えた空気へ混じったので、緩んだのはよく分かる。
番頭の揉み手が止まり、重ねた指の間に湿った光が浮かぶ。算盤に負ける商人を、わたくしは初めて見た。帳場の算盤は、並べられた数をそのまま音にする。嘘をつかないぶん、容赦というものも知らないのである。
「恥の買い取りは、いたしませんの。売りにも出しませんわ。お引き取りの値など、なおさら付きませんことよ」
そこへ、開いた戸から声が鋭く割り込む。外の冷気と革と馬の匂いが流れ込み、卓の紙を震わせた。戸口に立っていたのは、外套の肩に朝の湿り気を残したままの義弟である。
「その紙は通らん。うちで一度突き返してる。ゲルハルト、兄の名で貸すなと言ったはずだ」
「これはこれは、代官様までお揃いあそばされまして。まことに恐れ入ります」
番頭は深々と腰を折り、その角度を崩さぬまま、靴底を擦らせて後じさりに戸口へ向かった。下げた頭からも、こちらの出方を量る目だけは消えない。商人というものは、退き際の足幅まで勘定でできているらしい。
「本日のところは、これにて失礼つかまつります。ああ、燭台の金貨二枚につきましては、旦那様へのお貸しに付け替えでございます。それと――お払いは、いつでも」
「それは、けっこうな勘定ですわ」
「手前どもは、別の紙を、当たらせていただきますとも」
乾いた掌をこする音だけ残して、番頭は消えた。別の紙。その一言だけが、磨き上げた商人の声からこぼれた地声である。閉じた戸の向こうから妙に長く尾を引き、わたくしの指先には、先ほど触れた銀貨より冷たいものが残った。
「……別の紙が、まだ勘定にあるのですって?」
「気を付けろ。兄上の借りなんぞ、都に行けば束で買える」
義弟は言うだけ言って、冷たい風を外套に巻きつけ、また馬の人になる。窓の外で蹄の音が石畳を打ち、やがて朝の遠くへ溶けていった。そのあとも帳場の算盤は、しばらく誰にも触られずにいる。別の紙、という言葉だけが、冷えた銀貨のように胸の底へ残っている。




