10. 二枚目の証文
六十日目の朝。給金の列が引けた帳場に、車輪をきしませて都の馬車が着いた。
卓の向こうにマルグレーテ様。戸口に義弟。壁際の写字台には、写字生。ハンナは湯気の立つ茶を皆へ置き、衣擦れの音を忍ばせて壁際へ下がる。約束どおりの顔ぶれである。
馬車からは、供が革紐をきしませ、重そうな箱をいくつも下ろしていた。家の帳面である。内証を負ってきた人が、その重みごと現物を自分で運んで来たのだ。
大奥様、とはもうお呼びしない。自分の名で雇うと言った方は、名でお呼びするのが筋である。
帳場には、朝の銭箱の音の余韻と、給金日の新しい紙の匂いがまだ漂っている。窓から差す晩秋の日は低く、卓の木目を蜂蜜色に長く照らしていた。この部屋で結ばれた証文は、これで五枚目になる。数えるまでもないのに、紙の角へ触れると数えてしまうのが性分である。
「では、始めましょうか。……その前に、一件、勘定へ入れておきたいことがございますの」
わたくしは背筋を伸ばして、一礼した。
「家宰も、雇われる前には、雇い主をきちんと検めますの」
「お検めなさい。存分に」
差し出されたのは、寡婦産の証文である。都の小さな地所。先々代の署名と、マルグレーテ様ご自身の印。貸し賃の帳を三年ぶん繰ると、乾いた音とともに、実入りは年に金貨二十五枚。店賃の遅れがちな店子がひとつ――それも、包み隠さず帳に載っている。正直な帳面である。そして、エーレンハイムの財から切り出したものでは――ない。
「お検めになった勘定は、いかがです?」
「正直な帳面ですわ。良い雇い主だと示す、何より確かな印ですのよ。――結構。この紙でしたら、お受けできますわ」
「当然です。エーレンハイムの金では、あなたを雇えないのですから」
言い切る声は冷えて澄み、その後ろで、扇の先が一度だけ卓を軽く打つ。
「店賃の遅れがおありのお店は?」
「姪の嫁ぎ先です。……取り立てなさい」
「利子は頂きませんの。その代わり、期日は帳面どおり、動かしませんわ」
マルグレーテ様の眉が、人を褒めるときの形へ、一瞬だけ動く。
「条件は三つですわ。給金は十日ごとに銀貨五枚、寡婦産から頂きますの。お財布と家、それぞれの勘定は、台帳を分けて立てますわ。そして――当主の私的な引き出しは、どちらの帳面でも、お断りですの」
「当然です。三つとも」
読み上げるたび、マルグレーテ様は扇を小さく傾けて頷く。
「家宰は、あくまで雇われですわ。家門へ戻る勘定では、ございませんの」
「分かっています。戻られては、こちらが困ります」
言ってから、その人は扇の陰で、ほんの少しだけ笑ったように見えた。壁際の写字台で、羽根の音が一拍だけ乱れたのは、聞かなかったことにする。
署名と、印。細く強い字の隣に赤がひとつ、受けの側にわたくしの印がひとつ。朱肉の匂いが、冷えた空気へ短く立って消える。雇いの作法は、この家の誰のときとも同じである。ハンナのときも、先生のときも、ザビーネのときも、あの方のときも――そして、わたくしのときも。
「それから、代官所のお勤めは掛け持ちで続けますわ。公の帳と家の帳には、同じ日に触れませんの」
「構わん。帳面のことは、もうあんたに聞く」
壁に寄り掛かったまま、義弟が言う。マルグレーテ様が扇越しに息子を睨み、絹がかすかに鳴る。それでも何も言わない。言葉遣いより先に、直すものがある家である。
「では、遠慮なく。――十日ごとの検算も、これまでどおりでよろしいですわね?」
「ああ。先に公の帳、あとで家の帳だ。順番はあんたが決めろ」
「順番でしたら、もう決めてございますのよ」
遠慮をした覚えなら、七年で一度も無いけれど。
家宰の最初の仕事は、写字生の証文の裏で待っている。
「十日ごとに、給金の銀貨一枚を、ブラント商会の受け取り帳へ回す。――ご自身の指図として、お書きいただけまして?」
写字生は、証文を裏返した。それから表に返し、もう一度裏へ返す。紙の擦れる音だけが、慎重に響く。一行目から最後の一行まで、指で辿って読んでいる。爪の先は文字のたびに止まり、唇もかすかに動く。何にでも確かめずに署名してきた男が、紙を隅々まで読み終える。初めて見る姿である。
「……六百四十回、その一回目か」
「ええ。あなたの稼ぎから、あなたの名で支払う、その一回目ですわ。――お断りになる道も、まだ帳面には残ってございましてよ」
「……いや。書く」
彼は書いた。羽根先が紙を掻く音は細く、読み終えた紙に置かれる署名は、いつもより少しだけ、遅い。
二枚の証文が、同じ卓の上に並んでいる。
裏に指図の足された写字生の証文と、家宰の証文。卓の上の紙は、この二枚である。低い日差しの中で、二つの墨が、鉄に似た匂いを立てて並んで乾いていく。追い出された男の紙と、家名を離れた女の紙が、同じ卓で同じ速さで乾くのだから、紙というものは公平である。その白さは、どちらの過去にも肩入れしない。
わたくしは台帳を開き、自分の行へ書き足した。家宰、十日ごとに銀貨五枚。筆を運ぶ指に、知らぬ間に力が入る。七年、白いままだったわたくしの行が、また一段、長くなる。黒い文字のぶんだけ、空白の歳月がこちらへ戻るようである。
「家の帳面は、表まで運んでまいりました。箱ごと、あなたに預けます」
「確かに承りましたわ。荷ほどきの手も、勘定どおり揃っておりますの」
「俺も荷ほどきの頭数に入れろ」
「まあ。代官様まで雇うとなれば、日当は高くつきそうですわねえ」
帰り際、義弟が戸口でふいに足を止めた。外の冷気に上着の裾が揺れ、懐から紙の束を出す。
「持っとけ。商会が都で侯爵家の借財を買い集めてる。これは、うちが突き返した紙の控えだ」
「あら。代官所の紙を頂いても、よろしいの?」
「写しだ。それに――」
彼は目を合わせない。紙の束を持つ指だけが、端をきつく挟んでいる。それから、戸口の外へ逃がすように言う。
「……今度のは、あんたのためだ」
言い捨てて、彼はもう戸口の外を向いている。冷たい光の中で、耳の後ろだけが、言葉より正直な色をしていた。見つめるうち、紙の束が掌へじんわり重くなる。
「まあ。では、この貸しにもお代を付けておきますわね」
「……お代、とは」
「帳面のお話ですわ。それ以上は、内緒の勘定ですの」
貸しと借りの帳面に、名前と日付を。線を引いておけば、手のひらに残るぬくもりにも値が付く。それがわたくしの、受け流し方である。
◇
夜、台帳を閉じる前に、頁を初めまで戻ってみた。燭台の火が揺れるたび、紙の端に金色の影が走る。最初の頁では、この帳場で、娘がひとりの名前を初めて呼ばれている。今日は、家がひとつ、まるごと雇われるところまで来た。頁はまだ、半分も埋まっていない。重なった紙の厚みを指で確かめると、薄い一冊が両手にしっかり重かった。
卓の隅には、義弟の置いていった控えの束がある。白い角が燭台の火を拾い、暗がりへ細い影を伸ばしていた。都のどこかで、誰かが束で紙を買い集めている。顔の見えない手がこちらへ伸びるように、乾いた匂いが鼻に残る。
窓の外で、夜風が馬車道の枯れ葉をさらっていく。次の給金日は、十日後。その前に〈別の紙〉がおいでになるのなら――お代は、高く付けて差し上げましょう。




