2. 出て行くのは、あなたですわ
十日目の朝が、この家での最初の給金日になる。薄い朝日が、帳場の窓から銭箱へ差していた。
銭箱から銀貨を一枚取り出す。硬貨は朝の冷たさをそのまま抱え、掌に置くと、金属の匂いと確かな重みが残る。
生まれて初めて自分で稼いだ金を、その子は両手で受け取った。
「……重い、です……」
「銀貨一枚ですのよ」
「……はい。それでも、重いんです……」
十日ごとに一日、休みが来る。門を出て、そのまま戻らなくてもよい日である。その一枚で、宿場へ戻る荷馬車に乗れる。門の向こうには、白く乾き始めた街道が延びている。
ハンナは門まで歩き、冷たい鉄の取っ手へ手をかけ、それから戻ってきた。
「……奥様。字を、教えてくださいませんか……?」
紙と羽根を渡す。娘は羽根の持ち方も知らず、力を込めるたび先端が紙に引っかかる。
それでも半刻のあいだに、震える墨の線で自分の名を書いてしまう。
「……わたし、書けました」
その子が自分を「わたし」と言ったのは、それが初めてである。かすかな声なのに、帳場の壁へまっすぐ届く。
わたくしは頷いた。頷いただけである。何か言えば、喉の奥で細くなった声が、普段とは違う形でこぼれてしまう。
次に、わたくしの名を書かせる。羽根先を、ゆっくりと、一画ずつ進ませた。
書き終えた娘が、墨の乾かない紙をじっと見つめている。
「……このお名前、見たことがあります……」
「わたくしの名を、ですか?」
「……旦那様の書斎で、暖炉の灰を掻き出しに参りましたとき、机の上の書き付けに、同じ形がありました……」
「それは、いつのことでしょう?」
「……五日ほど前です。旦那様が、お前は字が読めないから構わない、と……」
娘は紙を置く。それから、今度は目を伏せず、まっすぐにわたくしを見た。
「……奥様。あの書き付けは、書斎の右の、いちばん下の抽斗です。旦那様が仕舞われるのを、灰を運びながら見ました」
「なぜ、それをわたくしに教えてくださるのです?」
「……奥様が、わたしに給金をくださったからです」
◇
書斎へ入り、右の、いちばん下の抽斗を引く。古い木が擦れ、重い音を立てる。
借用証書。金貨三十枚。借り主の欄には、わたくしの名がある。四隅に折り目がつき、墨はもう乾いて紙へ沈んでいる。
わたくしの筆ではない。線の払いも、文字の間も違う。そして、あるべき印だけがない。
厩の者を代官所へ走らせる。遠ざかる蹄の音を聞きながら、表座敷へ旦那様をお呼びし、卓へ証書を置いた。
「エーレンハイムの金は、旦那様の署名と、わたくしの印。両方が揃って動きますの」
「……君、それは」
「先代のお定めですから、この紙に値打ちはございません。ただ、わたくしの名を、わたくしではない者が書いたという事実だけは残りますわ」
半刻もせぬうちに、案内も待たずに義弟が入ってくる。開いた戸が壁へ当たり、乾いた音を立てる。
「その紙は通らん。ブラント商会が十日ばかり前に持ち込んだが、印がないからうちで突き返した。兄上に取ってこいと言って戻した」
「なぜ、黙っていらしたのです?」
「あんたの印が押されて出てくるか、十日待った。悪いが、あんたも疑ってた」
マティアス様は外套も脱がずに証書を顎で指す。荒い息に、外の冷たい空気が混じっている。
「払い先は割れた。三十枚のうち十枚は鴉亭、あの汚え宿だ。兄上の名じゃ、もう一枚も借りられん」
金貨十枚。娘を一人、宿から連れ出すのに払われた額である。朝、娘の掌へ置いた銀貨の冷たさが、わたくしの指に戻ってくる。
「……僕はあの娘を、金を出して連れてきたんだ。僕のものだ」
「その十枚は、わたくしの名で借りた金ですわね?」
「そ、それは、その……」
「わたくしは買った覚えはありませんの。雇っただけ。それに商会へのお支払いは、旦那様ご自身の勘定ですわ。金はもう動いておりますもの」
「兄上。使用人は正妻になれない。主が使用人に手を出せば、家名の恥として離縁の事由になる。世間の理だ」
わたくしは台帳を開き、紙の擦れる音とともに、余白の日付を見せた。
「三日目の夜、廊下です。わたくしは、この目で見ておりますわ」
「リュディア。頼む、話を聞いてくれ」
旦那様がわたくしを名で呼んだのは、七年で初めてである。その音だけが、妙に近く耳へ残る。
「ええ。ずっと、聞いておりますとも」
「君は、僕を追い出す気か?」
「離縁いたしますわ。事由は二つ。名を騙った証書と、三日目の夜の廊下ですわ」
「出て行くのは、あなたですわ」
旦那様の口が、開いたまま止まる。漏れかけた息だけが、喉の奥で鳴った。
「そんな馬鹿な話があるか」
「この屋敷は七年前、わたくしの持参金の金貨八百枚で買い戻したものですわ」
「あれは……あれは、家の金だろう?」
「家の金ではございません。実家の金ですわ。証文には売り主と先代の署名、わたくしの印があり、買い主の欄もわたくしの名ですの」
わたくしは台帳に新しい行を開く。何もない白さが、灯の下へまっすぐ延びている。
「七年、この家の勘定は全部わたくしが合わせてまいりました。一度も、自分の分を書き入れたことがございません」
筆を取り、その行へ、自分の名を書き入れる。墨が乾く前に、その隣へ、十日ごとに銀貨一枚、と添える。
書いてしまうと、思ったより小さな数だった。紙の上では頼りなく見える。それでも、七年で初めて書いた自分の値である。
置いてやってくれ、と言ったのは、彼のほうである。
◇
数日後の朝。玄関には、旦那様の荷が三つ積まれている。淡い朝日が、閉じた革鞄の金具に冷たく光っていた。
離縁の証書に、旦那様の署名とわたくしの印が並んでいる。この家で二つが揃った最後の紙である。乾いた朱が、朝の光に赤く沈む。この屋敷の金は、もうエーレンハイムの金ではない。明日からは、わたくしの印だけで動く。
帳場では、ハンナが台帳へ自分の名を書いている。もう羽根先は、紙の上で立ち止まらない。
「今日から、給金は十日ごとに銀貨二枚です。奥の納戸の鍵も、ひとつお預けしますわ」
「……はい。奥様」
「お返事が、ずいぶん短くなりましたわね」
「すみません。……いえ、ありがとうございます」
義弟が戸口に寄りかかっている。差し込む朝日が、外套の片側だけを照らす。
「義姉上。代官所に一人ぶん席が空いてる。給金も出るぞ。……別に、あんたのためじゃない」
「わたくしはもう、あなたの義姉ではございませんのよ」
「知ってる。だが、呼び方は変えん」
マティアス様は羽根をつまみ、また置く。羽根軸が卓で軽く鳴る。わたくしも、義弟と呼ぶのをやめる気はない。
「では、こちらからも一つ。代官所の帳面を見せてくださいまし」
「は?」
「雇われる前に、雇い主を検めておくのが筋ですもの」
マティアス様が、口の端だけで笑う。伏せていた目が、ようやくこちらを向く。
廊下から、旦那様の声がした。閉じた戸を探るような、低くかすれた声である。
「……僕が連れてきたあの娘は、まだこの家にいるのか?」
「ええ、あの子はよく働きます。――あなたよりも、ずっと」




