3. 家庭教師の給金は、まだ一度も
帳場の窓がほの白み、二十日目の朝が来る。この家の、二度目の給金日である。
夜のうちに冷えきった帳場へ、竈から流れてくる煮炊きの湯気が入り、こわばった指先をゆっくりほどいていく。銭箱の蓋を開けると、蝶番が小さく鳴き、銀貨が鈍く光る。
「ハンナ。お約束どおり、銀貨二枚ですわ」
「……はい。確かに、いただきました」
受け取る手は、もう震えない。二枚を布に包み、結び目を指で確かめてから胸元へ仕舞う。布越しの硬いふくらみをそっと押さえる手つきまで、十日でひとつ齢を重ねたように落ち着いている。
列が引けた頃、門番が客を告げた。
門の外に、若い男が立っている。黒髪が額に貼りつき、抱えた風呂敷から書物の角が覗く。上着は仕立てこそまともだが、肘のあたりが擦れて薄く光り、風呂敷を胸へ押しつける指の節は冷えで白い。旅の埃より先に、夜露の湿りと冷えた布の匂いが届く。
「『礼は名乗りから』と、書物にございます。テオバルトと申します。その……侯爵様の文を、お預かりして参りました」
差し出された文には、見慣れた筆の癖が走っている。侍女に読み書きを教えてやってくれ、支度金と給金は追って必ず、とある。紙は冷たいのに、その言葉だけが指先へ妙に軽く触れる。
追って、の三文字を、わたくしは二度読んだ。紙の上では墨が黒々としているのに、胸へ置けば羽より軽い。この筆の「追って」を、七年ぶん聞かされてきた耳である。あの方の言葉の中で、いちばん軽い三文字。待っても戸口に足音が来た試しは、一度もない。
「帳場へどうぞ。まずは、お茶を差し上げますわ」
◇
卓を挟むと、男は風呂敷を膝に抱え込んだまま、背筋だけをまっすぐに伸ばす。茶碗には手を付けない。いや、白い指が縁に触れる前で止まるところを見るに、付け方を迷っている、というのが正しいらしい。湯気の向こうで、喉仏だけが正直に動いている。
濡れて重くなった外套から、古紙と夜露の匂いがする。書物を濡らすまいとして、自分が濡れて歩いてきた匂いである。
「先生。これまでのお給金は、どちらの勘定から出ておりますの?」
「は……。侯爵様が、追って、と仰せでした」
「では、これまでのお受け取りは、幾らでして?」
「『学恩は金に先立つ』と、書物にありますので、小生はそれで……お給金は、まだ一度もいただいておりません」
「その学恩は、今夜のお宿代の足しになりまして?」
男は黙り込み、膝の風呂敷へ指を食い込ませる。正直な喉仏が一度だけ上下し、冷えた頬を茶の湯気だけが薄く染めた。
「もう一つだけ、勘定を合わせるために伺いますわ。文のほかに、何を言い付かっていらっしゃいます?」
「『問われれば、正直に』と、書物にございます。……十日ごとに、こちらの家の様子を、書き送るように、と言い付かっております」
「そのお役目には、おいくらのお給金が付きまして?」
「……む、無給で、ございました」
「まあ。その勘定では、うちより悪いお勤め先ですこと」
言ってから、男は自分の膝へ目を落とす。耳の先に赤みが差し、風呂敷の結び目を忙しなく撫でている。書物の中の間者は、もっと上手に嘘をつくものだろう。この人は、伏せた睫毛まで正直すぎて、まるで向いていない。
「小生は、つまり、その……間者でございます。それでも、よろしいのですか?」
「承知しました。では、正式に雇い入れます」
男が顔を上げるより先に、わたくしは証文を卓へ広げている。乾いた紙の音が、濡れた外套の匂いを断ち切る。名はテオバルト。職は家庭教師。起きる刻に、休みの日。給金は十日ごとに銀貨二枚。空いていた欄が埋まるにつれ、頼りなく立っていた男にも、この家で腰を下ろす場所ができていく。
「入りの値は一枚から、と決めておりますの。ですけれど、先生の文字には、きちんと値を付けて買いますわ」
文字を買う。口に出してみると、乾いた帳場に小さく響き、思いのほか胸のすく言い方だった。値の付いたことのないものに値を付けるのは、どうやらわたくしの道楽であるらしい。冷えていた指先まで、いつの間にか温んでいる。
「小生の字を、買われるのですか?」
「ええ。それから、文はお書きになって構いませんの。ただし帳場で、わたくしの検めを通してから。事実だけでしたら、誰も困りませんもの」
「お、お宿は……その、今夜の分も、付くのでしょうか?」
「お宿は、この家に付きますのよ。今夜からは、書物だけでなく、ご自分も濡れずに済みますわ」
証文の裏の一行も、先生ご自身の声で読ませた。はじめはかすれていた声が、末尾では少しだけ通る。読み終えて、先生は真面目な顔で二度頷く。書物のどこかに、似た戒めでもあるのだろう。頷くたび、まだ濡れた黒髪から雫が襟へ落ちた。
男は羽根を借り、自分の名を自分で書く。癖のない、手本のような字が、羽根の細い音とともに紙へ並んでいく。隣に立つハンナは息を浅くし、濡れた墨のつやまで逃すまいと、その手元を食い入るように見ている。
「先生。まずはその字を、この子に教えていただけまして?」
「……はい。はい、喜んでお教えします」
昼下がり、静かな手習いの声を割って蹄の音が近づき、義弟が馬を止めた。革と馬の汗の匂いを連れて帳場へ入るなり、離縁の届の控えを卓へ置く。羽根の持ち方を講義している若い教師を一瞥して、鼻を鳴らした。
「まあいい。字書きの若造か」
「ご用は、それだけでお済みですの?」
「用はそれだけだ。兄上は都の、母上の屋敷に転がり込んでる」
言うだけ言って、義弟は茶も飲まずに出て行く。開いた戸から馬の匂いと冷たい風だけが入り、すぐに蹄の音が遠ざかった。忙しいのか、そうでないのか、いつも分からない人である。
午後いっぱい、帳場の隅が手習いの席になった。西へ回った日が窓枠の影を長く伸ばし、紙の白を蜂蜜色に染めていく。銀貨を数える場所に、羽根の影が重なって揺れる。
「申し訳ありません、先生。この字の、はねるところが……」
「『はねは鳥の尾』と、書物にございます。尾のように、すっとお書きください」
「鳥の尾……覚えました。でも、やっぱり難しくて……」
「まあ。お給金を払う甲斐のある、良い先生ですこと」
「せ、精進いたします」
ハンナの線が曲がるたび、先生は書物から一句引き、羽根先を宙で迷わせてから直す。回りくどいけれど、句と一緒に覚えた線は、忘れないものらしい。娘の指先は墨で黒くなっても紙を離れず、先生の声も、いつしかつかえなくなっている。
墨の匂いと、羽根の擦れる音と、小さな復唱。七年、算盤の音しかしなかった帳場に、知らない音が増えていく。胸の奥に固く積もっていた静けさが、そのたび薄く削られる。悪くない、と思ってしまってから、悪くないどころではない、と自分で言い直す。窓硝子に映る口元は、思ったより素直にゆるんでいる。
夕の便に、検めを通した最初の文を載せた。封を閉じる蝋の匂いの向こうで、出立を告げる鈴が鳴っている。
――お給金は十日ごとに、滞りなく払われております。
「……これだけで、よろしいのですか?」
「事実を数えれば、それだけですもの」
先生の羽根は、この一行を書くあいだ、一度も引っかからなかった。さらさらという音だけが、夕暮れの帳場に途切れず続く。事実だけの文というものは、書きやすいのだそうである。ならば、あの方には、ずいぶん書きにくいことだろう。
夜、先生の部屋には物置を片付けた小部屋をあてがった。乾いた木と埃の匂いが残るが、灯りを置けば、狭さも人を包むものに見えてくる。灯りを持って行ったハンナが、戻ってきて小さく言う。
「……申し訳ありません。本を、枕にしていらっしゃいました……」
「枕は、明日きちんとお届けしましょうね。――それから、ハンナ」
わたくしは、都へ発った文が、あの方の手で開かれるところを思い、少しだけ笑ってしまう。夜気の冷たい廊下で、灯がひとつ、手の中で揺れている。灯りの持ち手は冷たいのに、炎のそばだけがじんわりと温かい。そのぬくみを、今は手放さずにいたかった。




