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香りで嘘が分かる調香師令嬢は、婚約破棄が“作られた匂い”だと気づいてしまった  作者: ヲワ・おわり


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第9話 その血は、名乗る家のものではない

 ベルトランの転落は、静かに始まった。

 裁定から数日、社交界の風向きが変わっていた。偽の証拠で婚約者を陥れようとした男。近衛騎士でありながら、他人の細工に踊らされた愚か者。噂は、アニエスが一言も広めずとも、勝手に広がっていく。人は、自分より上に立っていた者が落ちるのを、見たがるものだから。

 その日、アニエスは調香院に呼ばれた。婚約破棄をめぐる一件の、最後の公式確認。立会の間には、前と同じ顔ぶれが揃っていた。バルテルミー、複数の調香師、王族の立会人アルヴィス。そして、末席に、青ざめたベルトランと、俯いたリゼット。

 バルテルミーが、厳かに告げた。

「調香院は、正式に裁定する。ヴェリエ伯爵家より提示された不貞の証拠は、薫街の工房で作られた偽装香水であると認める。よって、当該の婚約破棄に、正当な根拠はない」

 言葉が、部屋に落ちた。

 ベルトランは、何も言い返せなかった。かつて人前で高らかに婚約破棄を宣言したその口が、今は固く閉ざされている。彼が自分の面子のために選んだ「公開の場」が、今度はそっくり、彼自身の恥をさらす舞台になった。誰も罵らない。ただ、事実だけが、彼の愚かさを照らし出す。

「……俺は」ベルトランが、かすれた声を絞り出した。「俺は、証拠を、信じただけだ。あの手巾は、リゼットが……」

 言いかけて、口をつぐむ。責任を寵姫に押しつけようとした自分の言葉の、あまりの見苦しさに、気づいたのだろう。近衛騎士の誇りも、伯爵家嫡男の矜持も、たった数日で、砂のように崩れていく。かつてアニエスを「格下の女」と侮った男が、今は誰の目も見られずにいる。

 アニエスは、その姿を、ただ静かに見ていた。溜飲が下がる、というのとは少し違う。ずっと自分を軽んじてきた相手が、自らの浅慮で転がり落ちていく。そこにあるのは、勝ち誇りではなく、奇妙な静けさだった。真実は、声を荒げない。ただ、そこにあるだけで、嘘をついた者を裁いていく。

 これが、母の教えた戦い方だった。断罪の言葉は、要らない。真実を、揺らがぬ形で置く。あとは、嘘をついた者が、自分の嘘の重みで、勝手に沈んでいく。

 リゼットの膝の上で、涙が一粒、落ちた。今度は、演技ではなかった。汗と一緒に立つ、本物の絶望の匂い。この娘は、後ろ盾を失いかけている。使い捨ての駒が、役に立たなくなったときの、あの饐えた匂いがした。

 勝った。名誉は、回復された。

 それなのに、アニエスの胸は晴れなかった。散会の間際、俯いて席を立とうとするリゼットの、その体から立つ匂いを、アニエスはもう一度、確かめてしまったからだ。

 香の帳の、ずっと下。肌そのものが放つ、血の匂い。

 ――やはり、違う。

 オルネ男爵家。その血筋の者なら、決してこうは匂わない。この娘の血には、乾いた遠い土地の匂いが、深く染みついている。名乗る家の血とは、まるで別のもの。

 人は、名を偽れる。生まれを偽れる。涙で、素性を塗り固められる。けれど、血の匂いだけは偽れない。母の手帳の言葉が、耳の奥で響いた。たとえ本人が忘れても、たとえ名を変えても。

 リゼット・オルネは、オルネ男爵家の娘ではない。

 確信が、背筋を凍らせた。ならば、この娘は何者なのか。誰が、素性を偽ってまで、この娘を宮廷に送り込んだのか。婚約破棄の偽装と、偽りの血。二つは、同じ手の仕業ではないのか。

 立会の間を出ると、王城の回廊は西日に染まっていた。石畳を歩く自分の足音だけが響く。追いかけてくる足音があった。振り返らずとも、白檀の香で分かる。

「殿下」

「顔色が悪い」アルヴィスが、隣に並んだ。「勝ったのに、なぜだ」

「……あの方の血は、名乗る家のものではありません」アニエスは、声を落とした。「リゼット・オルネは、オルネ男爵家の血を引いていない。誰かが、素性を偽って、宮廷に送り込んだ駒です」

 アルヴィスの足が、止まった。

 しばらく、彼は何も言わなかった。西日が、その端整な横顔に、濃い影を落としている。やがて、絞り出すように、低い声が漏れた。

「そなたが、あの立会で嗅いだと言った……宮廷の定紋香。高い家格の、花と樹脂の練り」

「はい」

「あれと、同じ香を、私は一度だけ嗅いだことがある」アルヴィスは、まっすぐ前を見たまま言った。感情を殺したその声が、初めて、かすかに震えていた。「十五年前。私の母が、毒で死んだ夜だ。あの部屋に、同じ香が、漂っていた」

 アニエスは、息を呑んだ。心臓が、一つ大きく鳴る。

 この人は、母を毒殺で亡くしている。宮廷の誰もが触れずにいた、あの噂。氷の殿下が感情を殺して生きるようになった理由。それが今、初めて本人の口から、事実として語られた。しかも、その夜に漂っていた香が、自分がリゼットの背後に嗅いだ定紋香と、同じだという。

 十五年前。城の奥。母に連れられて、嗅いだことのない奇妙な匂い。甘く、金属くさく、花のような。母に「誰にも言うな」と口止めされた、あの夜の記憶。あのとき自分は五歳で、その二つ上の少年が、母を喪ったばかりだったのか。同じ夜、同じ城の中で、二人は、それぞれの母の悲劇のそばにいたのかもしれない。

 あの夜嗅いだ奇妙な匂いが、もし毒の残り香だったのなら。母が「誰にも言うな」と口止めしたのは、その毒殺の秘密を、幼い娘が嗅ぎ当ててしまったからなのだとしたら。母の急死も、この一本の糸の先に、繋がっているのかもしれない。

 点が、線になっていく。婚約破棄の偽装。偽りの血の娘。宮廷の定紋香。そして、二人がそれぞれに抱えていた、古い夜の記憶。ばらばらだった断片が、一つの匂いの糸で、静かに縫い合わされていく。

「殿下」アニエスは、震える声で言った。「わたくしたちは、同じものを追っているのかもしれません」

「ああ」アルヴィスの灰色の瞳が、アニエスを捉えた。「香りは、婚約破棄の嘘だけでなく、もっと古い嘘まで、暴いてしまうらしい」

 西日が、沈んでいく。長い影が、二人の足元から、宮廷の奥の暗がりへと伸びていた。

 婚約破棄の勝利は、終わりではなかった。それは、母を殺した毒と、偽りの血へ続く、暗い廊下の入口だった。


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