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香りで嘘が分かる調香師令嬢は、婚約破棄が“作られた匂い”だと気づいてしまった  作者: ヲワ・おわり


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第8話 血を読む家の、忘れられた重み

 勝ちが見えているのに、アニエスは眠れなかった。

 裁定の前夜。公爵邸の調香室で、灯りを一つだけ点し、母の香料箱を膝に抱いていた。窓の外は、初夏の走りの雨。土の匂いが、細く部屋に忍び込んでくる。

 明日、ベルトランとの決着はつく。偽装はすべて立証された。それなのに、胸の底に居座る違和感が、どうしても拭えない。指先で香料箱の蓋をなぞりながら、アニエスは何度も同じ問いに立ち返った。

 なぜ、ここまでして、自分ひとりを陥れるのか。

 伯爵家との破談を望むだけなら、こんな半年がかりの偽装は要らない。ベルトランがリゼットに傾いたのなら、放っておいても婚約は壊れた。醜聞を立てたいだけなら、噂を流せば済む。それを誰かは、薫街の工房を動かし、宮廷の定紋香を纏う代理人を使い、相場の三倍の金を積んで、周到に罠を組んだ。その労力は、婚約破棄という結果に、まるで釣り合っていない。

 釣り合わないのは、目的が別にあるからだ。婚約破棄は、その目的のための、ただの入口。そう考えれば、過剰なほどの手間の意味が、初めて通る。雨音を聞きながら、アニエスはその考えを、幾度も転がした。

 母の手帳を、もう一度開く。血縁を香で記した図の、その先の頁。走り書きの言葉を、指でなぞった。

『血は、香を偽れない。たとえ本人が忘れても、たとえ名を変えても』

 母は、何を書き遺そうとしたのだろう。名を変えた者。血を偽った者。母は、そういう者を嗅ぎ分ける仕事をしていた。この宮廷で。

 翌朝、雨は上がっていた。アニエスは裁定の前に、調香院のバルテルミーを訪ねた。確かめたいことがあった。

「主席。母は、宮廷で、どのような役を担っていたのですか。血を読む家系だと、手帳にありました。けれど、それが何を意味するのか、わたくしは知らされないまま育ちました」

 バルテルミーは、茶を淹れる手を止めた。しばらく、湯気の立ちのぼるのを見つめてから、静かに口を開いた。

「血の鑑定だ。それも、最も重い部分の」老調香師の声は、慎重だった。「この国では、貴族の血の正統性も、王位継承の血の真贋も、調香院の血の鑑定が担保する。誰と誰が本当に親子か。この子は本当にその家の血を引くのか。それを香で見極める。近い血の者は、生まれ持った体臭に、どこか似た響きを分かち持つ。それを読み分けられる者は、この国にほんの一握りしかおらん。お前さんの母上は、その筆頭だった」

「王位継承の、血まで」

 アニエスの背に、冷たいものが走った。自分がずっと「職人仕事」と侮られてきたこの鼻が、王の座を左右する制度の、まさに芯に触れるものだったとは。

「血の鑑定は、権力そのものだ」バルテルミーは続けた。「正統な血を持つと認めれば、その者は王になれる。偽りだと暴けば、継承から弾かれる。だから調香院は、いつの世も政争の的だった。鑑定を握る者を、味方につけるか、さもなくば消すか。権力を争う者は、必ずどちらかを選ぶ」

「消す、とおっしゃいましたか」

「お前さんの母上が急に逝かれたことを、わしは今でも解せんと言ったな」バルテルミーは目を伏せた。湯呑みを包む皺だらけの手に、力がこもる。「病だと診立てられた。だが、あれほど健やかだった人が、あんなに早く逝った。今にして思えば、あの頃、宮廷では継承を巡る水面下の動きがあった。もし、母上の鼻が、誰かにとって都合の悪い真実を嗅ぎ当てていたのだとしたら。……わしは、その先を口にするのが、恐ろしい」

 言葉が、続かなかった。けれど、その沈黙が語っていた。母の死は、ただの病ではなかったかもしれない。血を読む鼻が、消されたのかもしれない。

 アニエスは、自分の手のひらを見た。母から受け継いだ、この鼻。ずっと「職人の技」「令嬢の戯言」と軽んじられてきたもの。それが本当は、国家の継承を左右する、権力の急所に触れる技だったとしたら。

 婚約破棄は、目的ではなかったのかもしれない。

 仮説が、形を成し始めた。誰かが、アニエスを調香院から遠ざけたい。血を読む鼻を、宮廷から排除したい。そのための第一手が、婚約破棄による醜聞ではなかったか。名を落とし、立場を奪い、調香師としての信用を潰す。醜聞にまみれた令嬢を、誰が公式の鑑定の場に立たせるだろう。母を消したのと、同じ理由で、今度は娘の信用を消しにかかっている。血を読む家系は、この宮廷にとって、それほどまでに邪魔なのだ。

 裁定は、恙なく終わった。調香院は公式に「証拠は工房製の偽装」と認め、婚約破棄の正当性は失われた。ベルトランは無言で退廷し、リゼットは俯いたまま去った。名誉は回復された。けれど、アニエスの心は晴れなかった。

 邸へ戻る道すがら、ネリが声を潜めた。

「お嬢様、薫街でまた妙な噂を。調香師の令嬢が、近いうちに調香院の役を解かれるらしいって。もう、そういう話が回ってるんです。裁定に勝ったばかりだっていうのに、変じゃありませんか」

 アニエスは、足を止めた。裁定に勝ったその日に、もう次の排除の手が回っている。婚約破棄で潰しきれないなら、職そのものを奪う。手を替え、品を替え、誰かが執拗に、自分をこの場所から引き剥がそうとしている。

「ネリ」アニエスは、雨に濡れた石畳を見つめたまま言った。「あなたも、危ないかもしれません。わたしの傍にいると」

「何をおっしゃいます」ネリは口を尖らせた。「あたし、お嬢様の侍女ですよ。お嬢様が薫街を駆け回るときに一緒に泥をかぶらなくて、いつ役に立つんです」

 その率直さに、張り詰めていた胸が、ほんの少しほどけた。孤独ではない。この宮廷で軽んじられ、父にも疎まれてきたけれど、隣を歩いてくれる者がいる。それだけで、明日も鼻を働かせる理由になる。

 雨上がりの空に、薄い虹がかかっていた。美しいのに、少しも心が浮き立たない。

 偽りの血。母を消したかもしれない手。血を読む家の、忘れられた重み。そして、今も自分に伸びてくる、顔の見えない指。

 婚約破棄の勝利は、終わりではなかった。もっと古く、もっと深い嘘の入口に、アニエスはたった今、足を踏み入れてしまった。


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