第7話 勝てるのに、刺さない
「証拠は本物だ! この女が、細工したに決まっている!」
立会の間に、ベルトランの怒声が反響した。二日目の午後。前日に手巾が偽物と認められた分だけ、彼の言葉は逆上を帯びていた。
「調香師なら、香をすり替えるなど造作もないはず。汗の馴染みだの何だの、後からどうとでも細工できる。この女は、自分の不貞を隠すために、証拠の方をいじったのだ!」
攻守が、ひっくり返る主張だった。もしこれが通れば、偽物と認められた手巾が、逆にアニエスの細工の証にされてしまう。調香師たちの何人かが、迷うように顔を見合わせた。世間の常識では、女が香をいじるなど造作もない、と思われている。その偏見に、ベルトランは賭けたのだ。
けれど、アニエスは慌てなかった。ベルトランの体からは、汗ばんだ強がりの匂いが立っている。追い詰められた者が、より大きな嘘で身を守ろうとするときの匂いだ。人は嘘を、重ねるほど綻びさせる。細く息を吸い、相手の焦りの度合いを確かめてから、アニエスは静かに立ち上がった。
「では、細工ではないことを、物でお示しします」
卓上に、薫街の工房から得た記録の写しと、空瓶を並べた。
「この手巾に使われた偽装香水は、薫街のさる工房で作られたものです。半年前、通常の商いではありえない量の定着剤が、この一軒だけで動いております。代金は相場の三倍。口止め料を上乗せした値です」
記録の数字を、調香師たちが検める。
「そして、こちらの空瓶」アニエスは小瓶を白木の台に載せた。「工房裏に捨てられていたものです。中に残る香を、どうぞお確かめください。手巾の香と、同じ調合かどうかを」
調香師が空瓶に鼻を寄せ、次に手巾を嗅ぐ。二度、三度と往復して、静かに頷いた。白木の部屋には、香を確かめる者の、ゆっくりとした呼吸の音だけが満ちている。
「同じだ。定着剤の癖、龍涎の粗さ、麝香の質。すべて一致する。この空瓶と手巾は、同じ工房の、同じ釜から出ている」年嵩の調香師が断じた。「香の調合は、指紋と同じだ。作り手の癖まで写る。まして、こんな粗い龍涎を宮廷で使う者はいない。二つが同じ源から出たことは、疑いようがない」
ベルトランの顔から、血の気が引いていった。喉の奥で、言葉にならない音が鳴る。彼の強がりの匂いが、みるみる饐えた焦りへと変わっていくのを、アニエスははっきりと嗅いだ。
「わたくしが後から細工したのなら、なぜ薫街の工房に、半年も前の発注記録が残っているのでしょう。なぜ、わたくしの知らぬ工房の裏に、同じ香の空瓶が転がっているのでしょう」アニエスは静かに続けた。「答えは一つ。この偽装は、半年前から仕組まれていた。わたくしがどう動くかを、誰かが先に読んで、用意していたのです」
すり替えの経路が、一本の線で繋がった。工房で作られ、代理人が運び、リゼットの手を経て、アニエスの私室に置かれた。細工したのはアニエスではない。細工されたのは、アニエスの方だった。
リゼットが、耐えかねたように口を開いた。
「……そんな、わたしは、ただ頼まれて」言いかけて、はっと口をつぐむ。潤んだ瞳の奥から、追い詰められた者の刺が、一瞬だけ覗いた。「……いいえ。わたしは、何も」
その綻びを、アニエスは聞き逃さなかった。「頼まれて」。ならば、頼んだ者がいる。喉まで出かかった問いを、けれどアニエスは呑み込んだ。
「リゼット様。あなたが誰に頼まれたのか、今は問いません」
立会の全員が、意外な顔をした。ここで問い詰めれば、リゼットは崩れる。勝ちを、決められる場面だった。
「わたくしは、匂いを証拠にはしても、断罪の理由にはいたしません。まだ、足りませんもの。あなたを追い詰めて吐かせた言葉は、恐怖が言わせた言葉。真実とは限りません。わたくしが欲しいのは、揺らがない事実だけです」
部屋が、静まり返った。勝ちを譲ってでも事実に忠実であろうとする令嬢の姿に、調香師たちの心証が、はっきりと傾くのが匂いで分かった。敬意の匂いは、香よりも澄んでいる。
休廷の合間、控えの間で、アルヴィスが茶を運ばせた。
「そなたは、勝てるのに刺さない」灰色の瞳が、アニエスを見ていた。「あの娘を締め上げれば、黒幕の名まで転がり出たかもしれん。なぜ、退いた」
「母の教えです」アニエスは湯呑みを両手で包んだ。「匂いは、事実の断片。恐怖で吐かせた自白は、断片ですらありません。ただの、命乞いの言葉。……それを証拠と呼べば、わたくしも、偽りの証拠を突きつけた者と、同じになってしまいます」
アルヴィスは、しばらく黙っていた。
「……母が、生きていた頃を思い出した」その声は、驚くほど静かだった。「あの人も、そういうことを言う人だった。証拠と、憶測を、決して混ぜなかった」
母、という言葉に、アニエスは湯呑みを持つ手を止めた。氷の殿下が、初めて自分の内側を、ほんの一言だけ開いた。香では何も読めない。それでも、その一言に沈む哀しみの温度だけは、はっきりと伝わった。
この人の母は、確か側妃だった。幼い頃に亡くしたと聞いた気がする。どんなふうに亡くしたのかは、宮廷の誰も口にしない。触れてはいけないものとして、みなが避けている。
訊いてはいけない、と思った。香では読めなくとも、これ以上は踏み込むな、と、その横顔が告げている。アニエスは、ただ湯呑みの温もりを手のひらで確かめた。
「明日、裁定が下る」アルヴィスは立ち上がった。「そなたは、勝つ。だが、勝った後のほうが、長い。覚えておけ」
言い残して、控えの間を出ていく。その背に、アニエスは声をかけようとして、やめた。かける言葉を、まだ持っていなかった。
窓の外で、初夏の走りの風が木々を鳴らしていた。日差しは、いつのまにか春のものではなくなっている。
すり替えは、立証された。決着は、目前。けれど、これほど手の込んだ偽装を、なぜ誰かは、令嬢一人のために仕掛けたのか。半年の準備、宮廷の香、惜しみない金。その重さが、婚約破棄という結末に、どうしても釣り合わない。勝利の予感の裏で、その問いだけが、いっそう大きく膨らんでいた。




