第6話 立会の間で、偽りの香が一枚めくれる
調香院の立会の間は、香を読むために造られた部屋だった。
窓はなく、壁は無垢の白木。余計な匂いを吸わせないため、香炉も花も置かれない。天井の高い、静かな石の部屋。ここでは、人の体から立つ匂いだけが、嘘偽りなく澄んで届く。舞踏会とは正反対の、アニエスの鼻が最も冴える場所だった。
長机の向こうに、五人の調香師が並んでいる。中央にバルテルミー。その傍らに、王族の立会人として、アルヴィスが静かに座していた。反対側にはベルトランと、リゼット。
アニエスは白木の椅子に腰を下ろし、深く息を整えた。この場に立てること自体が、勝ち取ったものだった。一介の令嬢の主張は、どれほど正しくても宮廷では退けられる。けれど今、五人の調香師と王族が居並ぶ公式の立会で、自分の鼻が下す判定は、制度の効力を持つ。母がかつて立った場所に、ようやく自分も立っている。掌が、わずかに汗ばんでいた。
「では、始めましょう」バルテルミーが低く告げた。声に含みはない。師は今日、身内の弟子ではなく、一人の立会調香師として振る舞うと決めている。それが、この裁定を公平なものに見せる。
リゼットが、まず口を開いた。前と同じ、震える声、潤んだ瞳。
「わたし、何度でも申し上げます。アニエス様は、別の殿方と……この手巾が、その証です」
涙の演技は、相変わらず巧い。けれど、この部屋では、演技の下の匂いまで筒抜けだった。汗ばむ手のひらから立つ、酸い焦りの匂い。この娘は今、本気で怯えている。
アニエスは立ち上がり、証拠の手巾を白木の台に置いた。
「立会の皆様に、お確かめいただきます。この手巾には男物の香が移っています。ですが、人の肌に触れた布に必ず残るはずのものが、ひとつも無い」
「必ず残るもの、とは」年嵩の調香師が問うた。
「汗の馴染みでございます。人が身につけた布は、日を追って体臭を吸います。手の脂、呼気、寝汗。香と体温が幾重にも溶け合う。どうぞ、お確かめを」
調香師たちが順に手巾に鼻を寄せた。白木の部屋に、衣擦れの音だけが続く。一人が長く息を吸っては止め、顔を上げて隣へ頷く。また一人が、眉を寄せてバルテルミーを見た。年若い弟子調香師は、確かめては首をかしげ、もう一度確かめて、ようやく得心した顔になった。
「確かに。香は濃いが、肌の馴染みが無い。指の脂も、呼気も乗っていない」年嵩の調香師が、ゆっくりと言った。「これは、身につけた布ではない。一度だけ香を移し、そのまま仕舞われていた布だ」
部屋の空気が、変わった。「令嬢の戯言」ではない。調香院の複数の確認をもって、手巾は偽物と認められた。制度の重みが、アニエスの側についた瞬間だった。
リゼットが、小さく息を呑んだ。証拠が本物であることを前提に組み上げた芝居が、その土台から崩れていく。潤んだ瞳が、味方を探すように広間をさまよった。だが、この部屋には、香で塗り固めた同情の入り込む隙がない。
リゼットの膝の上の手が、握りしめられる。ベルトランの顔が朱に染まり始めた。
「まだ、ございます」アニエスは手巾を裏返した。「この布には、香を移した者の残り香も、わずかに染みています。布を扱った指の匂い。香を焚き込めた衣の匂い」
もう一度、静かに息を吸う。焦らず、細く。麝香と龍涎の層をくぐり、その奥へ。
――あった。
高価な香の底に、宮廷でしか焚けない、格の高い調合が沈んでいる。花と樹脂を練り上げた、身分ある家の定紋香。市井の代理人が、決して自前では纏えない香だ。使いが手巾を運ぶあいだに、衣から移ったのだろう。
アニエスは顔を上げた。声を、抑えて言う。
「この残り香は、宮廷の紋章に用いられる定紋香。それも、かなり高い家格の。ヴェリエ伯爵家のものでは、ありません」
「なに……?」ベルトランが腰を浮かせた。「俺は、そんな香、知らんぞ」
その動揺には、嘘の匂いが無かった。ベルトランは本当に、知らない。彼は自分が使った偽の証拠が、どこから来たのかを、まるで分かっていない。
――この人も、駒だ。
背筋に、冷たいものが走った。婚約破棄そのものが、誰かの筋書きの一部だったとしたら。ベルトランの嫉妬も、リゼットの涙も、上から与えられた台本にすぎないとしたら。誰かが、これほど手の込んだ偽装を仕込んでまで、自分を陥れようとしている。痴情のもつれで説明するには、金も、技も、かかりすぎていた。
「本日はここまでといたします」バルテルミーが散会を告げた。「手巾の偽装は、調香院として認める。続きは明日、すり替えの経路を検める」
人々が席を立つ。リゼットは俯いたまま、逃げるように部屋を出ていった。
アニエスが白木の台を片づけていると、いつの間にかアルヴィスが傍らに立っていた。
「その、定紋香」低い声だった。「もう一度、詳しく言え。花と樹脂の、どんな練り方だ」
問われるまま、アニエスは香の構成を告げた。聞き終えたアルヴィスの横顔が、ほんのわずか、強張った。香では何も読めないその人が、初めて、隠しきれない何かを漏らした瞬間だった。
「殿下。その紋に、お心当たりが」
「ある」アルヴィスは、それきり口を閉ざした。灰色の瞳が、白木の壁の一点を見据えている。「私は、その紋を知っている。よく、知っている」
声が、いつもより半音低かった。感情を殺すことに長けたこの人の、抑えの糸が、一瞬だけ緩んだ音。香では届かない。けれど、言葉のわずかな乱れが、その奥にある古い痛みの気配を、アニエスに伝えていた。
「今日は、もう帰れ」アルヴィスは背を向けた。「そなたの鼻は、よく働いた。働きすぎるくらいにな」
労いなのか、警告なのか。判じかねる一言を残して、王子は立会の間を出ていった。白檀の静かな香が、白木の廊下に細く尾を引く。
それ以上は、何も語られなかった。けれど、その沈黙の重さが、アニエスの胸にいつまでも居座った。
偽りの手巾。宮廷の高位の家の香。知らぬと動揺したベルトラン。そして、紋を「よく知っている」と呟いた王子。
私的な破談のはずだった。なのに、めくれた一枚の下から覗いたのは、宮廷の奥へ続く、暗い廊下だった。




