第5話 脅された者の匂いは、金より恐怖が勝つ
「証言は、取れんだろうな」
調香院の一室で、バルテルミー主席は開口一番そう言った。白髪をきっちり撫でつけた老調香師は、湯気の立つ茶を娘弟子に差し出しながら、含みのある目でアニエスを見た。
「工房主が口を割ったのは、金と、お前さんの鼻に追い詰められたからだ。だが、公の立会で証言せよと言われれば、あの手の小物は必ず縮む。買収か、脅しか。どちらにせよ、証言は当てにできん」
「……はい。承知しています」
「立会の手順を、もう一度言うておく」バルテルミーは指を折った。「血の鑑定や偽装の判定を公式効力とするには、複数の調香師の確認が要る。加えて、王族の立会。手順を一つでも欠けば、どれほど正しい嗅ぎ分けも、ただの主張に格下げされる。お前さん一人が『偽物だ』と叫んでも、世間は『令嬢の戯言』と笑うだけだ」
その言葉は冷たかったが、突き放すためのものではなかった。師の体からは、案じる者のかすかに苦い匂いが立っている。この人は、弟子が制度の壁に潰されるのを、何より恐れている。
「制度というものは、な」バルテルミーは窓の外の調香院の尖塔を見上げた。「弱い者を守るためにあると、若い頃は思っておった。だが、この年になると分かる。制度は、正しい者ではなく、手順を踏んだ者を守るのだ。手順を握る側が強い。お前さんの母上も、それで苦労なさった」
母の話が出て、アニエスの指がわずかに止まった。
「母を、ご存じなのですか」
「知っておるとも。血を読む鼻では、この国で右に出る者はいなかった。あの方が急に逝かれたのは、今でも解せんよ」バルテルミーは口をつぐみ、それ以上は語らなかった。ただ、言葉の途切れ方に、言えぬ何かを呑み込んだ気配があった。
「だからこそ、殿下の後ろ盾が要る、と」
「そういうことだ。よくもまあ、あの氷の殿下を動かしたものよ」バルテルミーは茶をすすった。「気をつけよ、アニエス。王族が令嬢に肩入れするからには、必ず思惑がある。ありがたく使わせてもらいながら、鼻だけは、こちらも利かせておくことだ」
午後、アニエスはネリを連れて再び薫街へ向かった。物証を、もう一段固めるために。
だが、あの工房の戸は固く閉ざされていた。叩いても返事がない。ようやく細く開いた扉の隙間から覗いた工房主の顔は、数日前とは別人のように青ざめていた。
「もう、なんも知らねえ。帰ってくれ」
声より先に、匂いが答えていた。金の匂いは、もう薄い。代わりに、体の芯から噴き出す、饐えた恐怖の匂い。追い詰められた獣の匂いだ。数日前の、探りを入れられた程度の警戒とは、質がまるで違う。
「……脅されましたね」アニエスは静かに言った。「金で口を割ったあなたを、今度は別の誰かが、命で黙らせに来た」
工房主の喉が、ひくりと鳴った。図星を突かれた者の、酸い匂い。
「頼む、令嬢さん。あんたも、これ以上首を突っ込むな。あの筋は……あっしみたいな者の命なんざ、香ひと瓶ほどにも思っちゃいねえ。あんただって、令嬢だからって安全じゃねえよ」
扉が、鼻先で閉まった。ネリが悔しげに唇を噛む。
「お嬢様、証言はもう無理ですね」
「ええ。この人の口からは、もう何も取れません」アニエスは閉じた戸を見つめた。「でも、それでいい。人は脅せても、物は脅せない」
工房の裏手に回り、勝手口の脇に積まれた木箱を検めた。使い切った香料の空瓶、廃棄した調合の記録の切れ端。ネリが手際よく戸板の隙間から拾い集め、アニエスが一つずつ鼻で確かめていく。
その中から、あの特殊な定着剤を扱った分量の記録を見つけ出した。半年前、通常ではありえない量が一度に動いている。しかも代金は、市場の相場の三倍で記されていた。口止め料を上乗せした値だ。空瓶のひとつには、まだあの偽装香水の残り香がこびりついていた。手巾の香と、寸分違わず同じ。
帳簿の数字は、脅しても青ざめない。空瓶は、震えて口をつぐんだりしない。証言が消えても、物証は残る。この二つを突きつければ、「令嬢の戯言」では済ませられない。
「証言でなく、物証で攻めます。数字と、香そのもので」
調香院に戻る頃には、とっぷりと日が暮れていた。ほかの調香師はとうに帰り、回廊には自分の足音だけが響く。灯りの油が切れかけ、指先がかじかむ。立会までに、まだ組み上げねばならないものが山ほどあった。
「根を詰めすぎだ」
声に振り返ると、回廊の柱にもたれて、アルヴィスが立っていた。手には、湯気の立つ包み。
「殿下……なぜ、こんな時間に」
「通りかかった」明らかに嘘だとわかる、素っ気なさだった。「調香院の油代は、王族が出している。無駄に灯すな……とでも言えば、居座る口実になるか」
彼は包みを机に置いた。中身は、まだ温かい麦の粥と、干した果実。しがない夜食だが、空腹を見透かされていたことに、アニエスは頬が熱くなった。
「感謝しても、殿下からは何も匂いません。お礼の言いようが難しいですね」
「読めないほうが、都合がいいのだろう。憐れみで差し入れたと思われずに済む」
その言い方に、アニエスはふと気づいた。この人は、好意を「憐れみ」と誤解されることを、ひどく警戒している。感情を殺して生きてきた人が、それでも誰かに何かをしたいとき、こんな不器用な回り道をするのか。
香では、何も読めない。けれど、言葉の選び方の端に、この人の孤独が滲んで見えた気がした。
「立会は、明後日だ」アルヴィスは背を向けた。「体を壊すな。そなたの鼻が潰れたら、私が困る」
困る、と言った。心配ではなく。けれど、その不器用さが、なぜか胸に沁みた。
回廊に、白檀の残り香と、麦粥の湯気が混ざって漂う。明後日、公の場で、リゼットの偽証を崩す。物証は揃いつつある。
ただ、脅しをかけた「あの筋」の影が、日ごとに大きくなっていく。工房主の怯えようは、ただの伯爵家嫡男に対するものではなかった。もっと上。もっと、大きな何か。
工房主が最後に浮かべた、あの怯えた顔が忘れられない。命で黙らせに来る相手。伯爵家の嫡男ふぜいに、そこまでの力はない。もっと上、もっと深いところに、この糸の端は結ばれている。
アニエスは温かい粥を口に運びながら、その影の輪郭を、まだ見ぬ相手の匂いを、静かに嗅ぎ取ろうとしていた。粥の湯気の向こうに、明後日の立会の場が、うっすらと見えた気がした。




