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香りで嘘が分かる調香師令嬢は、婚約破棄が“作られた匂い”だと気づいてしまった  作者: ヲワ・おわり


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第4話 氷の殿下は、匂いを漏らさない

 応接の間に通されたその人は、噂どおり、酷く静かだった。

 第二王子アルヴィス・ド・セルヴァン。灰色の瞳、抑えた声、無駄のない所作。窓から差す夕日が、その端整な横顔を淡く染めても、表情はさざ波ひとつ立たない。給仕の侍女たちは、王子を前にして頬を染めながらも、どこか氷の像に給仕するような、落ち着かない手つきをしていた。

 アニエスは向かいの椅子に腰を下ろし、背筋を伸ばした。婚約破棄で名を落とした令嬢の家を、王族が直々に訪ねてくる。異常なことだ。歓迎より先に、警戒が立つ。

「突然の訪い、迷惑だったか」

「……いいえ。ですが、殿下がわたくしごときに、どのようなご用かと」

「あの夜会にいた」アルヴィスは前置きを削いだ。「そなたが、手巾の香を嗅ぎ当てるところを、最後まで見ていた」

 柱の陰から、こちらを見ていた灰色の瞳。あの視線を、アニエスは覚えている。

「多くの者は、そなたを笑った。破談を突きつけられた令嬢が、往生際悪く調香の話でごまかそうとした、と」アルヴィスは静かに続けた。「私は違うものを見た。そなたは、一嗅ぎで偽物を見抜き、しかも断罪をやめて引いた。証拠が足りないと言って。あれは、感情ではなく職能で立っている者の判断だ」

 アニエスは、言葉を失った。

 十年、この職能は蔑まれてきた。父からも、婚約者からも、社交界からも。「令嬢の戯言」「職人風情」。真正面から評価されたことなど、母が亡くなってから一度もなかった。

 その、たった一度が、今、目の前にある。しかも、社交界の誰もが憐れむか嘲るかしたあの夜を、この人だけは、まったく違う目で見ていた。

「多くの者は、香で人の心を読むなど、まやかしだと言う」アルヴィスは膝の上で手を組んだ。「だが、そなたは根拠を並べていた。汗の馴染み、定着剤、銘柄。まやかしなら、あそこまで具体的には語れない。あれは技だ。技には、敬意を払うべきだと私は思う」

「そなたの鼻は嘘をつかない」アルヴィスの声は、称賛の熱を帯びない。ただ事実を置くように。「ならば私は、そなたの言葉を、証拠として扱う」

 胸の奥で、何かが熱くほどけた。泣くまいと、アニエスは膝の上で指を組んだ。喜びが、汗ばむほどに込み上げる。けれど、こんなにあっさりと肯定されて、いいのだろうか。

「……なぜ、殿下がそこまで」

「調香院に、正式な立会の場を用意しよう」問いには答えず、アルヴィスは核心を差し出した。「複数の調香師の立会、王族の同席。そこでそなたが偽装を証明すれば、それは『令嬢の戯言』ではなくなる。制度の効力を持つ」

 制度の場。単独では退けられる主張を、公式の効力へ引き上げる道。喉から手が出るほど欲しかったものを、この人はこともなげに差し出している。

 あまりに都合がいい。だからこそ、確かめずにはいられなかった。

 アニエスは、そっと息を吸った。相手の本心を、香で読もうとする。長年の癖だ。人は言葉で飾っても、体は正直に匂う。善意か、打算か。この申し出の裏に何があるのか、嗅ぎ取ろうとした。

 何も、しなかった。

 アニエスは、思わず身を乗り出した。もう一度、慎重に。近い距離で、無風の室内で。動揺も、後ろめたさも、欲も、何ひとつ立ちのぼらない。まるで、そこに感情という器官が存在しないかのように。

 読めない。何ひとつ、読めない。

 この十年、読めなかった者など、ただの一人もいなかったのに。

「どうした」アルヴィスが、わずかに眉を動かした。「私の顔に、何かついているか」

「……いえ」アニエスは、正直に言うことにした。隠しても仕方がない。「殿下からは、匂いがしないのです。人は誰しも、心の揺れを匂いで漏らします。なのに、あなただけ、何も」

 アルヴィスの唇の端が、ほんのわずか、動いた。笑みとも呼べない、影のような。

「氷の殿下、か。都合がいい」その声は、ひどく静かだった。「凍っていれば、そなたにも読まれずに済む」

 皮肉のようで、どこか自嘲のようで。アニエスは、その一言の下に沈んでいる何かを掬い取ろうとして、やはり掬えなかった。香では、届かない。

 けれど、なぜだろう。「読まれずに済む」と言ったその言葉の選び方に、この人が長いあいだ、誰かに読まれることを恐れて生きてきたような、そんな気配だけが残った。香ではなく、言葉の端から。

「立会の日取りは、追って知らせる」アルヴィスは立ち上がった。「そなたは、証拠を固めておけ。あの手巾がどこで作られ、誰の手を経たか。断片を、崩せない形に組み上げておくことだ」

 扉の前で、一度だけ足を止めた。振り返らないまま、低く言い添える。

「……そなたの鼻を、私は買っている。安く手放すな」

 去っていく背中は、まっすぐで、隙がなかった。その背に、アニエスは何の匂いも読めなかった。善意の温度も、下心の湿りも。ただ、白檀の静かな香だけが、廊下に細く尾を引いていた。

 見送りに出たアニエスの隣で、ネリが目を丸くしていた。

「お嬢様、あの氷の殿下が、わざわざ! しかも『鼻を買ってる』だなんて。ねえお嬢様、これって」

「立会の場をくださっただけです」

「そういうことにしておきますけどぉ」ネリは頬に手を当て、わざとらしく溜め息をついた。「でもお嬢様、あたし心配なんです。あの殿下、後ろ盾が薄いって聞きますよ。継承争いでも旗色が悪いって。そんなお方が、わざわざお嬢様に肩入れして、大丈夫なんでしょうか」

「……大丈夫でないから、来たのかもしれません」

「え?」

「後ろ盾が薄い人ほど、味方の値打ちを知っている。あの方は、わたくしの鼻を『買う』と言った。憐れみでも気まぐれでもなく、値打ちのある道具として。それは、案外、誠実なことかもしれません」

 ネリのからかいを聞き流しながら、アニエスは遠ざかる馬車を見送った。反撃の場が、手に入った。胸の高鳴りは、それだけのはずだった。

 なのに、落ち着かない。誰の嘘も読めるこの鼻が、あの人の前でだけ、役に立たない。それが、こんなにも心をざわつかせるなんて。

 春の宵の風が、白檀の残り香を運んできた。アルヴィスが纏っていた、静かな香だった。


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