第3話 香の洪水の底で、ひとつの匂いだけを追う
薫街は、匂いの海だった。
通りの両側に香料商が軒を連ね、店先の釜からは樹脂を煮る煙が立ちのぼる。乾いた薬草、蜜蝋、東方から運ばれた香木、そこに人いきれと市場の生臭さが混ざり合う。ふつうの人間には芳しい賑わいでも、アニエスの鼻には、ほとんど拷問に近い。
「お嬢様、大丈夫ですか。顔色が」
「平気です。ただ、ここでは細い匂いが全部かき消される」
舞踏会と同じだ。強すぎる香は、本当のことを覆い隠す。アニエスは布で口元を覆い、あえて呼吸を浅くした。全部を嗅ごうとすれば、頭がやられる。狙うのは、たった一つ。手巾に使われていた、あの高価な定着剤の匂いだけ。
人波の中を、ゆっくり歩く。香料商が七軒、八軒と過ぎる。どの店の香も、定着剤の匂いは薄い。安物ばかりを扱う通りだ。
途中、道端の香草売りが炷いた燻香に鼻を殴られ、たまらず足を止めた。目の奥が痛む。ネリが慌てて水売りから一杯もらってくれて、それで喉と鼻をどうにか宥めた。一つの匂いだけを追い続けるというのは、耳を塞ぎたくなるような楽団の只中で、たった一本の弦の音を追うようなものだ。気を抜けば、たちまち見失う。
「お嬢様、無理をなさらないで。あたしが聞き込みで探しますから」
「いいえ。人の言葉は偽れても、香は偽れません。これは、わたくしの鼻でなければ」
九軒目の角を曲がったとき、ふっと鼻の奥が反応した。人波と煙の底を、細い糸のように貫いてくる匂いがある。
これだ。
樹脂を幾度も蒸留した、あの独特の重み。間口の狭い、看板もない工房から漂っている。アニエスは足を止めた。数多の香の洪水の中から、狙った一筋を掬い上げた手応えに、指先が軽く震えた。
「ネリ、あそこ」
工房主は、太った中年の男だった。客が令嬢と知って愛想笑いを浮かべたが、その笑みの下から、酸い匂いが立った。警戒の匂い。後ろめたい者が、探りを入れられたときに出す、あの匂いだ。
「香水をご所望で? うちは卸専門でしてね、お貴族様のお相手は」
「半年ほど前、こちらで特別な調合を大口で受けられましたね。宮廷向けの定着剤を、安香水に忍ばせる、変わったご注文」
男の笑みが、固まった。額に汗が滲む。恐怖と、それを隠そうとする強張りの匂い。嘘をつこうとする者は、体で先に嘘をつく。
「さあて……そんな覚えは」
「ございますでしょう。あなたの手には、まだその樹脂の匂いが残っている」アニエスは静かに続けた。「わたくしは咎めに来たのではありません。ただ、誰が発注したのかを知りたいだけです」
男は口を真一文字に結んだ。だが、ネリが横から袖に小銭を滑り込ませ、庶民同士の砕けた口調で耳打ちすると、男の肩から少しだけ力が抜けた。
「……名は聞いてねえ。代理人が来たんだ。頭巾を目深にかぶった、痩せた男でね。金払いはよかった。前金を、金貨で。あんな払いっぷり、この通りじゃ見たこともねえ」
男は声を落とし、周りを一度うかがった。
「ただ、あの使いの纏ってた香がね。宮廷の、それも上つ方の紋が焚き込められた、上等なやつでさ。あの手の香は、身分ごとに調香院が管理してる。勝手には焚けねえもんだ。あんな香を焚ける使いが、頭巾で顔を隠してこんな裏通りに来るなんざ、まともな筋じゃねえ。だからあっしも、名なんざ聞かなかった。聞いたら、こっちの命が危ねえ」
男の手が、無意識に自分の首筋を撫でた。恐怖が、汗になって匂う。この男は、脅されるより先に、自分で怯えている。
宮廷の、紋入りの香。
アニエスは、その一言を胸に刻んだ。発注者の名までは辿れない。けれど、影の大きさが変わった。市井の痴話喧嘩ではない。宮廷の、それも高位の誰かが、この偽装の裏にいる。
礼を言って工房を出ると、ネリが不安げに囁いた。
「お嬢様、これ……相手が大きすぎませんか」
「ええ。大きすぎる。だからこそ、いっそう確かめなければ」
公爵邸に戻ったのは、日が傾いてからだった。調香室に籠もり、アニエスは母の香料箱をもう一度開いた。薫街で嗅いだ紋入りの香の記憶が、なぜか母の遺した匂いと、遠いところで響き合っている気がしてならなかった。
手帳の頁を繰る。血の繋がりを香で記した図の、その先。母が最後に書き残した一頁に、走り書きがあった。
『血は、香を偽れない。たとえ本人が忘れても、たとえ名を変えても』
母の字は、そこだけ乱れていた。急いで書いたのか、それとも怯えていたのか。
箱の隅の小瓶を、そっと開けてみる。琥珀色の、古い香油。ひと嗅ぎした瞬間、アニエスの視界が、ぐらりと揺れた。
幼い日の記憶。五歳の夜。母に連れられて城の奥へ入り、大人たちの張り詰めた声の中で、嗅いだことのない奇妙な匂いを嗅いだ。甘く、金属くさく、それでいて花のような。怖くて、母の裾を握りしめた。あれは、何の匂いだったのか。
母の声が、記憶のずっと奥で聞こえた気がした。「アニエス、息を止めて。ここで嗅いだことは、誰にも言ってはいけません」。あんなに張り詰めた母の声を、後にも先にも一度きりしか聞いたことがない。母はあの夜、何かを嗅ぎ当ててしまったのだ。そして、それを口にすることを、幼い娘に固く禁じた。
息が乱れた。こめかみが、ずきりと痛む。嗅ぎすぎたときの、あの鈍い痛みだ。
「お嬢様!」
ネリが駆け寄って支えた。アニエスは小瓶の蓋を閉め、額を押さえた。
「……大丈夫。少し、昔の匂いを、思い出しかけただけ」
けれど、思い出せない。喉元まで来ているのに、記憶が霧の向こうに逃げていく。あの夜、城で何があったのか。母は何を嗅ぎ取っていたのか。
窓の外で、鳥が鳴いた。夕闇が、薫街の煙を紫に染めている。
発注者は、宮廷の紋を纏う誰か。母の遺した「血は香を偽れない」という言葉。そして、思い出せない幼い日の残り香。断片ばかりが手の中で増えて、どれもまだ、一つの絵に結ばれない。けれど確かに、同じ匂いの糸が、どこかで全部を縫い合わせている気がした。
断片が、増えていく。まだ、繋がらない。
そのとき、邸の門で馬の嘶きがした。ネリが窓から外を覗き、息を呑んだ。
「お嬢様……第二王子殿下の、紋章のついた馬車です」
氷の殿下が、なぜ、この家に。




