第2話 母の遺した箱には、血を読む技が眠っていた
朝の光が、公爵邸の広間を白々と照らしていた。父の声だけが、その静けさを破っている。
「家名に泥を塗って、よくものうのうと戻ってこられたものだ」
ラフォンテーヌ公爵は、娘を見ようともせずに言った。窓辺に立ち、庭の若葉に目をやったまま。膝の上で組まれた手が、苛立ちに小刻みに動いている。怒りは汗に滲む。父の体からは、外聞を気にする者特有の、すえた不安の匂いが立っていた。
「ヴェリエ伯爵家との縁組がどれほど骨だったか、お前は分かっているのか。それを、社交界の笑いものになって」
「わたくしは、通じてなどおりません」
「事実など、どうでもいい」父が振り返った。「世間がどう見るかだ。令嬢が調香などという職人仕事にうつつを抜かすから、こういうことになる」
その言葉は、もう十年、幾度も浴びてきた。母が遺した唯一のものを、父は一度も認めなかった。娘が宮廷調香師として異例の若さで血の鑑定に立ち会っても、父にとってそれは誇りではなく、家の恥のままだった。
アニエスは、逆らわずに一礼した。ただ、退き際に静かに言った。
「あの証拠は、偽物です。わたくしが覆します。この鼻で」
父が何か言い返す前に、背を向けた。廊下を歩く足取りに、迷いはなかった。泣いてやる涙も、乞うてやる憐れみも、今は要らない。
邸の奥、母から受け継いだ調香室に入ると、雑多な香が出迎えた。乾いた薬草、樹脂、古い木箱の埃。ここだけが、この家でアニエスの息のできる場所だった。
昨夜、退場のどさくさに紛れて回収してきた手巾を、机に広げる。窓を細く開け、風を殺し、灯りを近づけた。香を読むには、静けさと無風が要る。舞踏会のような場では、本当のことは何も嗅げない。
息を、細く長く吸う。
麝香、龍涎、その奥に沈んだもの。定着剤の匂いが、細く立ちのぼった。
アニエスの指が、止まった。
これは、樹脂を幾度も蒸留して作る宮廷向けの高価な定着剤だ。香を長く肌に留めるための、玄人の技。市井の伊達男が使う安香水に、こんなものは絶対に入らない。安香水を装いながら、香だけは決して飛ばないよう、腕のある職人が細工している。
アニエスは、もう一度嗅いだ。定着剤の分子は、龍涎の粗さとまるで釣り合っていなかった。安物の衣に、宝石の留め具をつけたようなちぐはぐさ。この不自然さこそが、細工の証だ。急いで用意した者は、香りがすぐ飛んでは困ると考え、つい上等な定着剤を使ってしまった。そこに、作り手の焦りが匂う。
素人には、作れない品だ。
これは痴情のもつれで慌てて用意された偽物ではない。工房で、注文を受けて、計算して作られた品だ。誰かが金を払い、職人に指図し、「本物らしく見える偽物」を組み上げた。
背筋を、冷たいものが撫でた。ベルトランひとりの浅知恵ではない。あの人に、香の定着剤の善し悪しなど分かるはずもない。
けれど、誰が発注したのかは、この布からは嗅げない。匂いが教えてくれるのは、いつも事実の断片だけだ。「作られた偽物だ」とは分かっても、「誰が、何のために」までは、自分の足で確かめるしかない。
「お嬢様」
扉が薄く開いて、侍女のネリが顔を覗かせた。早口の、率直な声。
「薫街で妙な噂ですよ。半年ほど前から、宮廷筋の使いが妙な香水を工房に作らせてるって。表に出せない品を、こっそりと」
ネリは声を潜めて、机の手巾に目をやった。
「まさかと思いますけど……その手巾も?」
「おそらくは」アニエスは布を指で撫でた。「これは工房で作られた品。素人の手すさびではありません。誰かがお金を払って、職人に指図して、本物らしい偽物を組ませた」
「そんな手の込んだこと、あのベルトラン様に……失礼ですけど、できるとは」
「ええ。あの人ではない。あの人に香の善し悪しは分からない」
「……宮廷筋の、使い」
アニエスは、机の隅に置かれた古い香料箱に目をやった。母の遺したものだ。母が生きていた頃、宮廷でどんな仕事をしていたのか、幼かった自分はよく知らないままだった。
箱の蓋を、初めて本気で開ける。細やかに仕切られた棚に、小瓶が整然と並んでいた。手に取ると、母の指の匂いが、まだかすかに残っている気がした。錯覚だと分かっていても、喉の奥が熱くなる。
箱の底に、革表紙の手帳があった。母の細い字で、香料の配合が書き連ねてある。頁を繰る指が、途中で止まった。
配合帳の合間に、見慣れない図が挟まっている。人の名の横に、香を示す記号がいくつも並び、線で結ばれていた。父と子、兄と妹。線の太さが、匂いの近さを表しているらしい。まるで、血の繋がりそのものを香で記録した帳簿だった。
「これは、血を読むための……?」
指先が、頁の上でわずかに震えた。
人の体臭には、生まれ持った血筋の匂いがある。近い血の者は、どこか似た匂いを分かち持つ。それを読み分けられる者がいれば、誰と誰が本当に親子なのか、香だけで言い当てられる。母は、それをやっていた。この宮廷で。
母は、ただの調香師ではなかったのかもしれない。人の血の繋がりを匂いで読み分ける、そういう技を持つ家系。自分の突き抜けた嗅覚が、天からの授かりものではなく、母から受け継いだ「家の技」なのだとしたら。
母は八年前、病で急に逝った。あまりに急だった、と今になって思う。
アニエスは手帳を胸に抱いた。埃と、古い樹脂と、母の匂い。それらが混ざり合って、遠い記憶の入口を、そっと押し開こうとしている。
「ネリ。薫街へ行きます。その工房を、この鼻で見つけましょう」
「え、お嬢様が直に? 危ないですよ」
「危ないのは、動かずにいることのほうです」
母の香料箱を、そっと閉じる。偽装の香、宮廷の使い、そして母の遺した技。ばらばらの断片が、まだ形を成さないまま、確かに一つの方向を指し始めていた。母が急に逝った八年前と、いま自分に仕掛けられた罠。その二つが同じ糸で繋がっているような、うっすらとした寒気があった。
アニエスは外套を手に取り、母の手帳を内側の隠しに忍ばせた。噂の糸がどれほど細くとも、辿れば必ず、匂いの元へ行き着く。
――待っていなさい。作られた匂いの、作り手まで。




