第1話 その手巾は、汗の匂いがしなさすぎる
広間を満たす香が、今夜はどれも噓くさい。
薔薇の油、龍涎香、貴婦人たちが競うように纏った甘い残り香。そのどれもが、隠したいものを塗り込めるための香だと、アニエスの鼻は知っている。十年、この宮廷で人の匂いを読んできた。喜びも、後ろめたさも、汗の一滴に滲む。人は言葉では噓をつけても、体からは噓をつけない。
隣に立つベルトランが、また視線を逸らした。婚約者の横顔ではなく、広間の中央で微笑む男爵令嬢リゼットの方へ。夜会の始まりには添えられていたアニエスの手が、いつのまにか彼の腕から離れている。
この人の香水は、いつからか変わった。以前はアニエスが選んで贈った白檀だったのに、今夜纏っているのは甘ったるい花の香だ。誰の趣味かは、嗅げば分かる。
「アニエス」
ベルトランが、わざと大きな声を出した。楽団の弦の音が途切れ、シャンデリアの下で招待客が振り返る。彼はいつもこうだ。人の目のある場を選ぶ。喝采を浴びる自分を、見られていたい人だった。
「今宵をもって、貴様との婚約を破棄する」
扇の陰でざわめきが走った。アニエスは、まばたきを一つした。胸の奥が冷えていくのを感じたが、顔には出さない。
「理由を、うかがっても?」
「しらばくれるな」ベルトランの声が跳ねる。「貴様が、私という婚約者がありながら、他の男と通じていた。その証拠がある」
リゼットが進み出た。両手で、白い手巾を捧げ持っている。目の縁を赤くして、震える指先まで、絵に描いたように哀れだった。
「わたし、こんなこと申し上げたくなかったのです。でも……アニエス様の私室から、これが出てきたと聞いて」
手巾には、確かに男物の香が残っていた。麝香の重い、市井の伊達男が好む安香水。招待客の何人かが、露骨に眉をひそめてアニエスを見た。ラフォンテーヌ公爵家の令嬢が、職人まがいの調香などにうつつを抜かすから。そういう囁きは、もう十年聞いている。婚約者を陰で支え、彼が手柄を並べる書簡の言葉まで整えてやったのに、返ってきたのは格下の女という蔑みだけだった。
泣くべき場面なのだろう。膝をつき、身の潔白を訴えて、憐れみを乞うべき。
けれどアニエスは、その手巾に鼻を寄せていた。息を、細く吸う。
「アニエス、聞いているのか!」
「……ええ、うかがっています。あなたの声も、この匂いも」
ひと嗅ぎで足りた。麝香の下に沈んでいる噓が、はっきりと透けて見える。アニエスは顔を上げ、広間じゅうに通る声で言った。
「その手巾、わたくしのものではありませんね」
「白を切る気か」
「いいえ。事実を申し上げているだけです」布を指先でつまみ、灯りにかざしてみせる。「この香は確かに男物。けれど、汗の匂いが、ひとつも馴染んでいないのです」
リゼットの睫毛が、かすかに震えた。
「人が身につけた布には、その人の体臭が幾重にも染み込みます。一日、二日と日を重ねて、香と体温が溶け合っていく。指で握った跡には手の脂が、口を拭えば呼気が残る。ですがこれは」布を軽く振る。「香を一度だけ、上から移しただけの布。誰の肌にも触れていない、真新しい偽りです」
招待客の囁きの質が、変わった。侮りから、戸惑いへ。
「銘柄も申し上げましょうか。これは薫街の〈灰緑亭〉が半年ほど前に卸した麝香を、粗い龍涎で伸ばした調合。宮廷では、どなたもお使いになりません。香が重すぎて、安すぎて」
ベルトランの顔が、みるみる朱に染まった。
「調香師風情が、口を挟むな! 現にその証拠が――」
「証拠、とおっしゃいましたね」アニエスは、静かに言葉をかぶせた。「わたくしは匂いを証拠にはしても、断罪の理由にはいたしません。まだ、足りませんもの。誰がこの布に香を移し、誰の私室に置いたのか。そこまで嗅ぎ切ってから申し上げます」
言い切って、アニエスは膝を折り、一礼した。作法どおり、非の打ちどころなく。リゼットが息を呑む音が、やけにはっきりと聞こえた。追い詰められた者の呼吸には、酸の匂いが混じる。演技の涙の下で、この娘は今、本気で怯えている。
「失礼いたします。今宵は香が乱れすぎて、頭が痛みますので」
背を向けて歩き出す。追ってくる罵声も、庇う声もない。ただ、値踏みするような沈黙だけが、背中に張りついた。
勝ってなどいない。手巾が偽物だと示しただけで、誰が仕組んだのかは闇の中だ。証拠がなければ、これは「令嬢の戯言」で片づけられる。十年、そうやって退けられてきた。
広間の出口で、リゼットとすれ違った。泣き濡れた演技の下から、ふと別の匂いが立ちのぼる。香ではない。もっと奥、肌そのものが放つ、血の匂い。
アニエスの足が、一瞬止まった。
おかしい、と思った。
オルネ男爵家。その血筋の者なら、こういう匂いはしないはずだ。もっと違う、乾いた遠い土地の匂いが、香の帳のずっと下に沈んでいる。それに、昔どこかで嗅いだ気がする。いつ、どこでかは思い出せない。喉の奥に引っかかった小骨のような違和感を、アニエスは記憶の隅に留めた。
顔を上げたとき、広間の柱の陰に、こちらを見ている男がいた。
第二王子アルヴィス。氷の殿下、と噂される人。感情の読めない灰色の瞳が、まっすぐにアニエスを捉えていた。憐れむでも、嘲るでもない。値踏みでもない、何かを確かめるような目だった。
なぜ、王子が。
その視線からは、匂いがしなかった。動揺も、好奇も、後ろめたさも。人はみな、感情を匂いで漏らす。この十年、読めなかった者など、ただの一人もいなかった。
なのに、あの人からは、何も立ちのぼらない。まるで、そこに人がいないかのように。
アニエスは会釈だけ返して、夜気の中へ出た。春の夜は、まだ肌を刺すほど冷たい。頭の芯が、嗅ぎすぎた香で鈍く痛んでいた。
仕組まれた婚約破棄。作られた手巾の匂い。すれ違いざまの、血の違和。そして、匂いのしない王子。
偽りの香を、誰が、何のために用意したのか。ベルトランひとりの浅知恵で、ここまで綺麗な偽物は作れない。
――辿ってやる。この鼻で。
アニエスは、冷えた指を握りしめた。泣くのは、真実を全部嗅ぎ当ててからでいい。




