第10話 祝いの香に、死が紛れている
晩春の光が、調香院の検分室に差し込んでいた。
婚約破棄の一件が公式に決着してから、十日ほどが過ぎている。季節は移り、庭の若葉は濃さを増し、風には初夏の湿りが混じり始めていた。アニエスは調香院の職務に、本格的に復帰していた。名誉が回復された今、誰も表立っては、令嬢調香師を侮れない。
とはいえ、仕事の中身は地味なものだ。今日の職務は、隣国への贈答香水の検分。外交の使節が携える品に、毒や細工が仕込まれていないかを確かめる。香を扱う者にしかできない、地道な安全の番人の仕事だった。
白木の卓に、意匠を凝らした硝子瓶が並んでいる。同僚の調香師が二人、隣で同じ検分にあたっていた。
「見事な香だ」同僚の一人が、瓶の一つに鼻を寄せて言った。「薔薇と、蜜と、ほのかな柑橘。祝いの品にふさわしい、華やかな調合ですな」
アニエスも、その瓶を手に取った。確かに、表向きは非の打ちどころのない祝香だった。薔薇の甘さが前に立ち、その後ろを蜜のまろやかさが支える。柑橘が、全体に明るい抜けを添えている。誰が嗅いでも、めでたい香だと思うだろう。
けれど。
アニエスは、目を閉じた。表の華やかさの奥へ、鼻を沈めていく。無風の部屋。近い距離。時間をかけて。香の層を、一枚ずつめくるように。
薔薇の下に、蜜。蜜の下に、柑橘。そして、その、さらに下。
――何か、ある。
ごく微量の、異物。甘い香に紛れて、ほとんど気づかれないほど薄い。けれど、確かに毒の気配がした。金属めいた、それでいて青草のような、独特の刺。生き物の身体が本能で警告するような、あの匂い。
「……この瓶を、下げてください」アニエスは、静かに言った。
「なぜです」同僚が、怪訝な顔をした。「良い香ではありませんか」
「毒が、入っています。遅効性の。香に紛れるよう、巧妙に溶かし込まれている」
二人の同僚が、慌てて瓶に鼻を寄せた。何度も嗅ぎ、顔を見合わせる。
「……分からん。私には、薔薇と蜜しか」
「私もだ。ラフォンテーヌ嬢、気のせいでは」
気のせいではない。けれど、二人には嗅ぎ取れない。それが、この毒の恐ろしさだった。ふつうの調香師の鼻すら、すり抜ける。祝いの香を纏って、誰にも気づかれずに、標的の元へ届くように作られている。市井には出回らない、宮廷の奥深くでしか作れない類の毒。
アニエスは、もう一度、慎重に嗅いだ。毒の輪郭を、記憶に刻もうとする。遅効性。無味。香に溶ける。摂れば、数日をかけて、ゆっくりと命を奪う。病と見分けがつかないように。
その瞬間、こめかみの奥が、鈍く疼いた。頭痛ではない。もっと古い、記憶の疼き。
この匂いを、知っている。
甘く、金属くさく、花のような。十五年前の、城の奥。母に連れられて嗅いだ、あの夜の匂い。そして数日前、リゼットの背後に、そしてアルヴィスの語った母の死の部屋に漂っていたという、あの気配。
同じだ。同じ毒。
確信が、足元から這い上がってきた。十五年前に一人の側妃を殺した毒。おそらくは八年前に、母の命を奪ったかもしれない毒。それと同じものが、今、目の前の祝香に溶かし込まれている。使い手は、十五年ものあいだ、同じ手口を握り続けている。腕を上げながら、より巧妙に、より気づかれぬように。
背筋が、冷たく強張った。手の中の硝子瓶が、急に重く感じられる。これは、ただの外交上の警戒ではない。今この瞬間も、宮廷のどこかで、同じ毒を使う誰かが、誰かの命を、静かに狙っている。そして、その誰かは、母を殺し、アルヴィスの母を殺した者と、同じ手の持ち主かもしれない。
アニエスは瓶を白木の箱に納め、封をした。指先が、わずかに震えていた。
「バルテルミー主席に、至急、報告します」
師の部屋で封を解き、事の次第を告げると、バルテルミーの表情が、目に見えて曇った。老調香師は自ら瓶に鼻を寄せ、長いあいだ、身じろぎもせずに嗅いでいた。やがて、深く息を吐く。
「……かすかだが、確かにある。よくぞ、これを嗅ぎ当てた。わしの鼻でも、お前さんに言われねば見過ごしたかもしれん」バルテルミーの声は重かった。「この毒は、市井には無い。宮廷の、それも限られた者しか手に入れられぬ代物だ」
「誰への贈答か、誰が仕込んだのか。それは、この匂いからは分かりません」アニエスは唇を噛んだ。毒があることは分かっても、そこから先は嗅げない。いつもの、匂いの限界だった。「ただ、確かなのは、これが外から来た毒ではないということ。宮廷の内側で、誰かがこれを仕込んだのです」
「宮廷の内側の毒、か」バルテルミーは、窓の外に目をやった。「贈答香水の名を借りて、狙う相手に近づける。祝いの品なら、警戒されぬからな。……これは、婚約破棄などより、ずっと剣呑な話だ。人の命がかかっておる」
師は、その毒の匂いに、心当たりがある様子はなかった。けれど、アニエスの胸の奥では、疼きが止まらなかった。師の知らないこの匂いを、自分だけが、遠い昔に嗅いでいる。その意味が、恐ろしかった。
検分室を出ると、廊下の窓の外に、初夏の空が広がっていた。晴れているのに、光がどこか遠い。
名誉回復の後の、束の間の平穏。それは、こんなにもあっけなく破られた。祝いの香の底に潜んでいたのは、遅効性の毒。しかもその匂いは、母の記憶と、王子の悲劇に、まっすぐ繋がっている。
なぜ、この匂いに、これほど覚えがあるのか。母は、あの夜、これを嗅ぎ当てて、幼い娘に沈黙を強いた。その母は、もういない。
誰が、この毒を、十五年ものあいだ、今も使い続けているのか。
この毒の出所を、辿らねばならない。誰に贈られようとしていた品なのか、どの経路で調香院に持ち込まれたのか。婚約破棄の偽装を辿ったときと同じように、匂いの糸を、一本ずつ手繰るしかない。だが今度の相手は、人の命を、香ひと瓶ほどにも思わない者だ。
アニエスは封をした箱を、もう一度、両腕に抱き直した。答えは、まだ分からない。けれど確かなのは、婚約破棄などより、ずっと深く、ずっと昏いものへ、自分が足を踏み入れつつあるということだった。母が沈黙のうちに遺したものを、今度は自分が、嗅ぎ切らねばならない。




