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香りで嘘が分かる調香師令嬢は、婚約破棄が“作られた匂い”だと気づいてしまった  作者: ヲワ・おわり


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第11話 十五年前の検分記録に、同じ毒が眠っていた

 調香院の資料庫は、埃と古い羊皮紙の匂いに満ちていた。

 窓のない石造りの部屋に、歴代の検分記録が棚を埋めている。香の処方、毒物の鑑定、血統の鑑定録。この国の宮廷が積み重ねてきた「匂いの記憶」の、すべてがここに眠っている。アニエスは灯りを片手に、古い記録の背表紙を、指でなぞっていった。

 探しているのは、十五年前の記録だった。

 あの毒。祝いの香に紛れていた、遅効性の毒。その匂いに覚えがあるのなら、過去の検分記録のどこかに、同じ毒の記述があるはずだ。調香院は、あらゆる毒物を記録に残す。たとえ、それが公にされなかった事件でも、香の処方だけは、必ず一度は紙に写される。それが、この院の掟だった。

 けれど、記録は膨大だった。年ごとに綴じられた検分録は、埃をかぶって棚を埋めている。アニエスは灯りを近づけ、一綴りずつ背の年号を確かめていく。指先が、たちまち埃で黒く汚れた。羊皮紙の黴と、古い墨の匂いが、鼻の奥にこびりつく。ここでは毒の記憶さえ、時とともに匂いを変えていく。

 どれほど探しただろう。灯りの油が半分に減った頃、棚の奥、湿気で傷んだ一綴りを引き出したとき、アニエスの指が止まった。

 十五年前、初夏。ある側妃の急死に関する、検分記録。

 公式には、病死とされていた。けれど、記録の余白に、当時の調香師の走り書きが残っていた。細かな、震えるような字で。『芳香の奥に、遅効性の毒の疑いあり。だが確証を得る前に、検分の中止を命じられた』。

 アニエスは、息を詰めた。

 中止を命じられた。誰かが、真相の解明を止めた。そして、その毒の調香の記述が、今日の祝香に潜んでいたものと、驚くほどよく似ている。青草めいた刺、金属の底、甘い香に溶ける性質。同じ、系統の毒だ。

 この側妃こそ、アルヴィスの母だった。

 記録の日付を、指でたどる。十五年前の初夏。それは、母に連れられて城の奥にいた、あの夜と、そう遠くない時期だった。五歳の自分が嗅いだ奇妙な匂い。甘く、金属くさく、花のような。母が「誰にも言うな」と口止めした、あの夜。

 もしかしたら、母は、この側妃毒殺の検分に、呼ばれていたのではないか。血を読む家の筆頭として。そして、真実を嗅ぎ当てたからこそ、幼い娘に沈黙を強い、その八年後に、急に逝った。

 過去と現在が、一本の匂いで繋がった。十五年前に一人の側妃を殺したかもしれない毒が、今また、宮廷のどこかで使われている。しかも、当時それを嗅ぎ当てた調香師は、検分の中止を命じられた。真実は、握りつぶされた。同じ手が、母をも消したのかもしれない。

 その夜、アニエスは王城の奥まった一室に呼ばれた。人払いされた、静かな部屋。窓辺に、アルヴィスが立っていた。

「見つけたか」問いは短かった。

「はい」アニエスは、布に移し取った毒の記録と、資料庫で見た検分記録の写しを差し出した。「殿下の母君の急死に、毒の疑いがありました。当時の調香師が嗅ぎ当てていた。けれど、検分は中止させられています。そして、その毒と、今、宮廷で使われている毒は、同じ系統のものです」

 アルヴィスは、長いあいだ、記録を見つめていた。灰色の瞳が、灯りの中で、微かに揺れる。香では、何も読めない。それでも、この沈黙の重さだけは、痛いほど伝わってきた。

「私は、ずっと追ってきた」やがて、低い声が漏れた。「母が病で死んだなど、信じていなかった。あの夜、部屋に漂っていた奇妙な香を、九歳の私は覚えている。だが、証拠がなかった。誰も、私の言葉を信じなかった。子どもの妄想だと」

「殿下……」

「感情を見せれば、次は私が狙われる。母を殺した者に、隙を見せてはならない。だから、凍った」アルヴィスは、初めて自分の傷の芯に触れた。「十五年、私は証拠のない疑いを、胸の奥で抱え続けてきた。そなたの鼻が、それに、初めて形を与えた」

 アニエスは、その言葉を受け止めた。この人が「氷の殿下」になった理由。感情を殺し、誰にも本心を読ませずに生きてきた、その孤独の根。香では読めないのに、言葉の一つひとつから、深い痛みが立ちのぼるようだった。信じたい、と思った。読めない相手を、それでも信じたい。その気持ちが、危ういほど強く胸を突いた。

「殿下。わたくしたちの目的は、一つです」アニエスは、まっすぐに彼を見た。「あなたの母君を殺した者と、今のわたしを狙う者は、同じ手の持ち主。その者を、暴きましょう」

 アルヴィスが、こちらを見た。何かを言いかけて、けれど言葉にせず、ただ小さく頷いた。

 そのとき、アニエスの背に、冷たいものが走った。

「殿下。……今の毒は、十五年前の記録ではありません。今日、検分した祝香に、入っていたのです」

 二人は、同時に同じことに気づいた。過去の謎解きに、心を奪われている場合ではない。同じ毒が、今この瞬間も、宮廷のどこかで、誰かの命を、静かに狙っている。あの祝香が、もし検分をすり抜けていたら。

「標的は、誰だ」

「分かりません。匂いは、毒があることは教えても、誰に向けられたかまでは……」

「その毒が、いつ、誰の口に運ばれるのか」アルヴィスの声が、鋭さを増した。「そなたが今日止めた祝香は、隣国への贈答だと言ったな。だが、同じ毒を使う者が、贈答一つで満足するとは思えん。本命の標的が、別にいる」

「はい。あの祝香は、囮か、あるいは手慣らしだったのかもしれません」アニエスは記録を胸に抱いた。「本当に狙われているのは、もっと近い誰か。この宮廷で、毒殺の恩恵を受ける者がいるとすれば」

「継承だ」アルヴィスが、静かに断じた。「王位継承に関わる誰かが、消えれば得をする者。母も、そうだった。母が消えて、得をした者がいた」

 その一言に、二人のあいだの空気が張り詰めた。敵の輪郭は、まだ見えない。けれど、動機の在り処だけは、はっきりと同じ方向を指していた。継承。血。そして、それを守るはずの、血を読む鼻。

 時間が、ない。アニエスは記録を握りしめ、立ち上がった。十五年前の真実より先に、目の前で進行しているかもしれない毒殺を、止めねばならない。次に毒の匂いを嗅いだときが、勝負だった。


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