第12話 毒杯を止めた手が、そのまま崩れ落ちる
宮廷の茶会は、香の戦場だった。
初夏の午後、王城の広間には貴婦人たちが集い、思い思いの香を纏っている。薔薇、菫、白粉の甘さ、花瓶に生けられた百合の匂い。給仕の運ぶ茶の湯気と、菓子の砂糖の焦げた香り。すべてが混ざり合い、渦を巻いていた。舞踏会ほどではないにせよ、ここもまた、アニエスの鼻が最も苦手とする場所だった。
それでも、来ないわけにはいかなかった。同じ毒が、今も宮廷で使われている。ならば、次に毒が動くのは、こういう人の集まる場かもしれない。アニエスは末席で茶を手に、絶えず神経を鼻に集めていた。
華やかな笑い声。扇のはためき。楽団の調べ。
その只中で、ふいに、鼻の奥がひやりとした。
毒だ、と鼻が叫んだ。
あの匂い。甘い香に溶けた、青草めいた刺。祝香で嗅いだのと同じ、遅効性の毒。それが、給仕が今まさに運んでいる、一つの茶杯から立ちのぼっている。杯は、上座の要人へ運ばれていくところだった。王家に連なる、年老いた公妃の元へ。
考える暇はなかった。止めなければ、あの人は死ぬ。数日をかけて、病と見分けのつかぬまま。
アニエスは席を立った。人々のあいだを縫い、給仕の前に体を割り込ませる。
「お待ちください。その杯を、公妃様にお出しになってはなりません」
広間が、静まり返った。無数の視線が、アニエスに突き刺さる。無礼者。名を落とした令嬢が、また騒ぎを。そういう空気が、匂いになって押し寄せた。
「ラフォンテーヌ嬢、何の真似です」年配の貴婦人が、眉をひそめた。
「その茶に、毒が入っております」アニエスは、給仕の手から杯を受け取った。「遅効性の、香に紛れる毒。今、お飲みになれば、数日のうちに」
ざわめきが走った。給仕が青ざめ、公妃が杯を見つめる。もしアニエスの言葉が間違いなら、これは王家への重大な侮辱だった。名誉回復したばかりの立場が、今度こそ地に落ちる。賭けだった。けれど、鼻は、嘘をつかない。
「調香院を、お呼びください」アニエスは杯を掲げた。「この茶を検分すれば、分かります。わたくしの鼻が正しいか、間違っているか」
駆けつけた調香院の同僚が、杯を検める。長い沈黙のあと、その顔から血の気が引いた。
「……毒だ。確かに、毒が入っている」
広間が、どよめいた。公妃が、震える手で口元を覆う。アニエスの言葉は、正しかった。一人の命が、香の一嗅ぎで、救われた。
詰めていた息が、ゆっくりと抜けていく。張り詰めていた肩から、力が緩んだ。けれど、それと入れ替わるように、視界の端が、ぐらりと歪んだ。
人いきれと強香の中で、毒の一点を嗅ぎ分けるために、鼻を酷使しすぎた。こめかみが、万力で締めつけられるように痛む。目の奥が、ちかちかと明滅した。立っているのが、やっとだった。
まずい、と血の気が引いた。
母から受け継いだこの鼻には、限界がある。強く嗅げば嗅ぐほど、代償が来る。頭痛、嗅覚の麻痺。そして今、その代償が、最悪の時に牙を剥いた。
掲げた手から、杯が滑り落ちる。陶器の割れる甲高い音が、遠くに聞こえた。膝から、力が抜ける。
「ラフォンテーヌ嬢!」
誰かが叫んだ。床が、迫ってくる。倒れる、と思った瞬間、力強い腕が、体を支えた。
白檀の香。読めない、あの匂いのしない気配。
アルヴィスだった。いつのまに、そばに。
「しっかりしろ」低い声が、すぐ耳元で聞こえた。いつもの静けさが、わずかに乱れている。「無茶を、しすぎだ」
朦朧とする意識の中で、アニエスは思った。この人の腕の中は、こんなに温かいのに、匂いだけは、やっぱり何も読めない。それなのに、なぜだろう。ひどく、安心する。
視界が、暗くなっていく。最後に感じたのは、自分を抱え上げる腕の確かさと、耳元の、押し殺した声だけだった。
「もう、いい。あとは、私がやる」
目を覚ますと、見知らぬ静かな部屋にいた。
窓は厚い布で覆われ、灯りは絞られている。強い匂いを避けた、鼻に優しい部屋だった。誰かが、そこまで気を配って、この部屋を整えたのだ。まだ、頭の芯が鈍く痛む。そして、嗅ごうとしても、匂いが、うまく立ち上がってこない。嗅覚が、麻痺している。世界から、色が一つ抜け落ちたようだった。
寝台の脇の椅子に、アルヴィスが座っていた。
「殿下……なぜ、ここに」
「人払いをした」短く答える。その手には、水の入った器があった。「飲め。喉が渇いているだろう」
差し出された器を、両手で受け取る。指が震えて、水面が揺れた。それを見たアルヴィスが、一瞬、器に手を添えかけて、けれど途中で引っ込めた。氷の殿下が、どう振る舞えばいいのか分からずにいる。感情を殺すことには長けても、誰かを介抱することには、まるで不慣れな人だった。その不器用な狼狽が、可笑しくて、そして胸に沁みた。
「あんな無茶を」アルヴィスの声が、低くこぼれた。「公妃の命は救った。誰もが、そなたの鼻に救われたと、今頃気づいている。だが、そなたが倒れて、何になる。次に毒が動いたとき、そなたが潰れていたら、誰が嗅ぐ」
叱っているようで、その実、案じている。回りくどい言い方でしか、この人は心配を口にできない。憐れみと思われたくない一心で、労りを叱責の形に包んでしまう。
「……匂いが、読めないのです」アニエスは、正直に言った。「嗅覚が麻痺して、今、殿下の匂いも、この部屋の匂いも、何も。いつもは、あなたの匂いだけが読めなかった。今は、何もかもが読めません。おかしいですね。それなのに、いちばん落ち着かないのは、やっぱり、あなたのことなのです」
言ってしまってから、頬が熱くなった。朦朧としているせいで、口が軽い。
アルヴィスは、答えなかった。ただ、絞った灯りの中で、その灰色の瞳が、いつもより長く、アニエスの上に留まっていた。香では、何も読めない。それでも、その視線には、確かに何かの温度があった。読めないのに、そばにいると安心する。その矛盾が、もう、ごまかしようもなく、胸の真ん中に居座っていた。
毒殺は、阻止された。命は、救われた。けれど毒を仕込んだ者は、まだ闇の中にいる。そして倒れた自分を抱えたこの人の中で、殺された母への想いが、今、静かに動き始めていた。




