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香りで嘘が分かる調香師令嬢は、婚約破棄が“作られた匂い”だと気づいてしまった  作者: ヲワ・おわり


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第13話 凍ることでしか、生き延びられなかった人

 匂いの読めない世界は、ひどく静かだった。

 療養の離れで目覚めて、三日目。嗅覚は、まだ本調子に戻らない。かすかな匂いは分かるが、あの、人の心の襞まで嗅ぎ分ける鋭さは、失われたままだった。アニエスは窓辺に座り、庭の緑を眺めていた。

 この鼻がなければ、自分は何者なのだろう。ふと、そんな心細さが胸をかすめる。人の嘘を、毒を、血の偽りを嗅ぎ当てる。それだけが、軽んじられてきた自分の、唯一の価値だと思ってきた。その価値が、今、手のひらから零れ落ちている。

 匂いのない世界では、人の表情や、声の震えや、指先の動きだけが、心を推し量る頼りになる。ふつうの人は、ずっとこうして生きているのだ。嘘を見抜けず、毒に気づけず、それでも人を信じたり、疑ったりしながら。その心細さを、アニエスは初めて、自分のものとして味わっていた。窓の外で、庭師が生垣を刈る鋏の音が、規則正しく響いていた。

「お嬢様、また辛気くさいお顔をなさって」

 湯を運んできたネリが、寝台の脇に盆を置いた。早口で、率直な声。この声だけは、匂いが読めなくても、まっすぐに伝わってくる。

「あたし、思うんですけどね」ネリは布巾を絞りながら言った。「お嬢様は、鼻がすごいから偉いんじゃありませんよ。ぼんやりしてる令嬢の鼻がどれだけ利いたって、あんなふうに毒杯の前に飛び出したりできません。飛び出せるのが、お嬢様なんです。鼻が読めようが読めまいが、お嬢様は、お嬢様です」

 アニエスは、ネリの顔を見た。庶民育ちの侍女の、飾らない言葉が、こわばっていた胸を、ゆっくりとほどいていく。

 そうか。職能は、自分のすべてではないのかもしれない。鼻が利くから動くのではない。動きたいから、この鼻を使ってきた。順番を、取り違えていた。

「ありがとう、ネリ」

「お礼なんて、水くさい」ネリは、照れ隠しに鼻を鳴らした。

 その日の午後、アルヴィスが見舞いに訪れた。

 二人は、離れの庭園を、ゆっくりと歩いた。初夏の花が咲きこぼれ、蜜を求める蜂の羽音がする。嗅覚が鈍い今、アニエスは、その羽音や、花の色や、アルヴィスの声の抑揚に、いつもより深く耳を澄ませていた。匂いに頼れないぶん、他の感覚が、世界を細やかに拾い上げる。

「顔色は、戻ったな」アルヴィスが、前を見たまま言った。

「殿下のおかげです。あの静かな部屋を、殿下が整えてくださったと、ネリから聞きました」

 アルヴィスは、答えなかった。図星なのだろう。この人は、善いことをして、それを認められるのが、ひどく苦手だった。

 しばらく、二人は無言で歩いた。やがて、噴水のそばで足を止めたアルヴィスが、水面を見つめたまま、静かに口を開いた。

「母が死んだのは、私が九歳のときだ」

 アニエスは、息を詰めた。この人が、自分から母のことを語るのは、初めてだった。

「母は、後ろ盾の薄い側妃だった。私を産んだことで、継承の目が、わずかに私に向いた。それが、誰かの気に障ったのだろう。ある日、母は倒れ、数日で死んだ。病だと言われた。だが、あの部屋には、嗅いだことのない甘い香が漂っていた。九歳の私は、それを覚えている」

 水の音だけが、二人のあいだを流れる。

「私は、泣いた。取り乱して、母を返せと叫んだ。すると、周りの大人たちの目が、変わった。『次に消えるのは、この子かもしれない』——そういう目だ。感情を見せる者は、弱みを見せる者。弱みを見せる者は、狙われる」アルヴィスの声は、驚くほど平坦だった。「だから、凍った。何も感じない、何も読ませない。そうすれば、狙う理由も、隙も、与えずに済む。……凍ることでしか、私は生き延びられなかった」

 氷の殿下。その名の、本当の意味が、今、目の前にあった。冷たいのではない。凍らなければ、殺されていた。感情を殺すことは、この人にとって、生き延びるための鎧だったのだ。

 匂いは、読めない。それでも、その言葉の一つひとつから、九歳で凍りついた少年の孤独が、痛いほど立ちのぼってくるようだった。アニエスは、かける言葉を探して、けれど見つけられず、ただ、彼のそばに立っていた。

「殿下」ようやく、絞り出した。「あなたを凍らせた者と、母君を殺した者は、同じです。その者は、宮廷の高い場所で、優雅に微笑んでいる。人を毒で消しながら、指一本汚さずに」

「ああ」アルヴィスの灰色の瞳が、夕暮れの色を映した。「下手人ではない。もっと上。宮廷の頂の、近くにいる。血と継承のために、人を虫のように潰せる者だ」

 二人は、噴水の縁に並んで腰を下ろし、これまでの断片を、一つずつ突き合わせていった。婚約破棄の偽装。宮廷上位の家格の定紋香。リゼットの偽りの血。十五年前と今を繋ぐ、同一の毒。そして、継承。

「毒で得をするのは、継承の目を持つ者か、その後ろ盾です」アニエスは、指を折った。「殿下の母君が消えて得をした者。今また、誰かを毒で消して得をする者。血統を偽ってまで、駒を宮廷に送り込む者。……その全部が、一人の人物に集まるとしたら」

「血の鑑定を、恐れる者だ」アルヴィスが続けた。「そなたの母が消され、そなたが狙われる理由も、そこにある。血を読む鼻は、偽りの血を暴く。継承を血で簒おうとする者にとって、それ以上に邪魔なものはない」

 言葉にすると、輪郭が、ぐっと近づいた。名前は、まだ出てこない。けれど、影の形は、はっきりしてきた。宮廷の頂に近く、継承に食い込む野心を持ち、血の鑑定を最も恐れる者。

 敵の格が、上がった。下働きの毒使いではない。宮廷の頂に近い、優雅な誰か。危険は、これまでの比ではない。

 夕日が、庭園を金色に染めていく。二人の影が、長く伸びて、噴水の縁で重なった。並んで座るその距離が、いつのまにか、はじめの頃よりずっと近くなっていることに、アニエスはふと気づいた。読めない相手。それなのに、隣にいることが、こんなにも自然になっている。

 黒幕は、宮廷の頂近くにいる。そして、回復した鼻で、その毒を改めて確かめたとき、すべてを繋ぐ最後の一致が、明らかになろうとしていた。過去と現在を貫く、一本の毒の糸が。


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