第29話 優雅な仮面をかなぐり捨てて、怪物が最後の手を打つ
詐称を暴かれたその瞬間、大公は、静かに、笑った。
優雅な微笑みではない。追い詰められた者が、最後に見せる、酷薄な笑み。能面のようだったその顔に、初めて、素の感情が、滲んだ。
「見事だ、ラフォンテーヌ嬢」大公は、ゆったりと言った。「母君譲りの、実に、良い鼻だ。だが――血の詐称は、末端の勝手な企み。オルネの娘が、身分を偽って宮廷に潜り込んだ。それだけのこと。私が、その詐称にどう関わっているというのかね? 証拠は、あるのかな」
切り離し。それが、大公の一手だった。詐称は認める。だが、それは末端の駒の勝手な仕業であり、自分は無関係だと。血が「大公家の血筋に近い」というだけでは、大公自身が詐称を仕組んだ証拠には、ならない。血筋の近い者など、傍系をたどれば、いくらでもいる。優雅な弁舌が、いま一度、真実と大公のあいだに、壁を築こうとしていた。
巧みだった。アニエスが暴いたのは、リゼットの血が偽りだという一点。その糸を、大公自身まで手繰るには、まだ、環が足りない。詐称を仕組んだのが大公だと、誰が証明できるのか。発注を裏づける工房主は、行方知れず。母毒殺の証拠は、十五年前の残り香だけ。それも、大公と直接結びつける決め手を、欠いている。
この男は、いつもそうだ。決して、自分の手を汚した証を、残さない。駒を動かし、駒を切り捨て、自分だけは、優雅な微笑みの向こう側に、留まり続ける。
しかも、大公は、それだけでは終わらなかった。
「それに」大公が、傍らの侍従に、目配せをする。「令嬢は、体調が優れぬようだ。証人だという工房主も、行方が知れぬと聞く。母毒殺などという、根も葉もない話。証拠が、どこにあると?」
アニエスの背筋が、凍りついた。
証人を、消す。証拠を、握り潰す。この期に及んでも、大公は、その手を、緩めない。工房主の身が危ない。そして、旧離宮で採取した毒の残り香の物証も、大公の手が及べば、いつ闇に葬られるか分からない。血統詐称は証明した。けれど、「大公自身の簒奪と、母毒殺」を繋ぐ、最後の環が、目の前で、断ち切られようとしている。
アニエスの嗅覚は、もう、限界だった。清めの香は、尽きた。強香の残る大広間で、これ以上、鼻を働かせることは、できない。頭痛は割れるようで、視界は白く霞み、立っているのも、アルヴィスの腕があればこそだった。
大公は、王前で、じわじわと、優位を取り戻しつつあった。
絶体絶命だった。勝利は、目前だったはずなのに。血統詐称という横軸は暴いた。けれど、本丸の大公に、あと一歩が、届かない。あと一つ。大公自身と、母毒殺を繋ぐ、決定的な証拠さえ、あれば。
傍らのアルヴィスの腕に、力がこもるのが分かった。母を殺した男が、目の前で、優雅に逃げ切ろうとしている。この人にとっても、これは、十五年越しの、正念場だった。それでも、アルヴィスは、感情に呑まれなかった。アニエスを支える手を、決して、緩めなかった。二人で、ここまで来た。ここで、終わらせるわけには、いかない。
味方たちも、動けなかった。フェリクスは、蒼白な顔で、成り行きを見つめている。叔父の本性を目の当たりにして、何か言いたげに口を開きかけては、閉ざす。まだ、踏み切れずにいた。バルテルミーも、ロランも、ネリも、固唾を呑んで、けれど、この局面を覆す一手を、持たない。
「令嬢。もう、よかろう」大公が、勝ち誇るでもなく、静かに、引導を渡すように言った。「そなたは、よくやった。血の詐称を暴いたことは、褒めてやろう。だが、それ以上は、証拠がない。無理を続ければ、そなたの命に関わる。……賢いなら、ここで、退くことだ」
あの夜と、同じ言葉。賢いなら、退け。母を殺した男が、娘に、同じ言葉で、幕引きを促している。
悔しさが、焼き切れかけた鼻の奥で、熱く滲んだ。ここまで来て。あと一歩で、母の無念に、手が届くのに。
その、静まり返った一瞬。
朦朧とするアニエスの意識の底で、何かが、引っかかった。
焼き切れる寸前の鼻が、最後の力で、ある匂いを、捉えていた。ずっと、この大広間に漂っていた匂い。強香に紛れて、気づかなかった。けれど、大公が笑い、こちらへ一歩、近づいたその瞬間、その男の衣から、はっきりと、立ちのぼったもの。
甘く、金属くさく、花のような。
まさか。
アニエスは、霞む目を、大公へと向けた。この匂い。この、身につけた者の体に、長年寄り添って馴染んだ、微かな残り香。それは、十五年前、旧離宮で嗅いだ、あの毒の匂いと、同じだった。母を殺し、側妃を殺した、あの毒の、癖と。
毒を長年扱う者の体には、その匂いが、消えない染みのように、沁みつく。香水では、覆い隠せても、消せはしない。強香に紛れて、今まで気づかなかった。けれど、間違いない。この男は、十五年、この毒を、その手で、扱い続けてきた。だからこそ、その体に、毒の癖が、宿っている。
息が、止まった。決定打は、遠くにあったのではない。証人でも、隠された物証でもない。今、目の前で、優雅に笑っているこの男自身が、その体に、動かぬ証拠を、纏っていた。血が偽れないように、長年沁みついた毒の匂いもまた、偽れない。
母の遺した香料箱。その最後の仕掛け。二重底の、さらに奥。旧離宮で残り香を採取したとき、指先が、まだ探っていない仕切りに、触れた気がした。母は、この日のために、何かを遺していたのではないか。十五年前、側妃毒殺の検分に呼ばれた母が、密かに封じた、決定的な何かを。すべてを繋げる、最後の鍵。それが、この箱の中に、眠っているのかもしれない。
震える指が、香料箱を、握りしめた。焼き切れかけた鼻が、最後の力で、道を、照らした。
アニエスは、確信の表情を浮かべ、顔を、上げた。霞んでいた視界の奥で、大公の余裕の笑みが、初めて、ぴくりと、強張るのが見えた。この令嬢が、何かに気づいた。その予感が、怪物の顔から、微笑みを、奪っていく。
これで、すべてを、繋げられる。母の無念も、側妃の悲劇も、この男の罪も。
翌朝、すべてが、決する。




