第30話 香りは嘘をつかない。だから、あなたのその想いも
夜が明けても、大広間の緊張は、解けていなかった。
徹夜の鑑定が、続いている。玉座の国王も、居並ぶ重臣も、疲れの色を隠せない。それでも、誰一人、席を立たなかった。この場で、この国の血の正統をめぐる、決着がつく。皆が、それを、知っていた。
アニエスは、一晩の休息で、辛うじて、鼻の力を取り戻していた。母の香料箱を、両手で、開く。二重底の、さらに奥。昨夜、指先が触れた、母の最後の仕掛け。
そこには、古い、小さな香瓶が、隠されていた。母の字で、こう記されている。『十五年前の夜、城で採る。いつか、この毒の主を暴く者へ』。
息が、震えた。母は、遺していた。十五年前、側妃毒殺の検分に呼ばれたあの夜、母は、毒の残り香を、密かに採取し、封じ込めていた。犯人を暴く証拠として。けれど、自分の身が危ういことを悟り、幼い娘を巻き込むまいと、沈黙のまま、この箱の底に、託した。いつか、真実を暴く日が来ることを、信じて。
母さん。アニエスは、心の中で、呼びかけた。あなたは、この日のために、命を賭けて、これを遺してくれたのですね。
「陛下に、最後の証拠を、お示しいたします」アニエスは、立ち上がった。アルヴィスが、傍らで、支える。
まず、大公に、一歩、近づく。そして、母の遺した香瓶を開け、その残り香と、大公の体に沁みついた匂いとを、複数の調香師に、嗅ぎ比べさせた。
「この香瓶に封じられているのは、十五年前、側妃殺害の現場で採取された、毒の残り香。わたくしの母が、遺したものです」アニエスの声が、大広間に、澄んで響いた。「そして、大公殿下の体に、長年沁みついた匂い。この二つを、お確かめください。同じ、毒の癖を持つかどうかを」
調香師たちが、順に、嗅ぎ比べる。バルテルミーが、最後に、二つの匂いを確かめ、目を見開いた。
「同じだ」老調香師の声が、震えていた。「香瓶の残り香と、大公殿下の体の匂い。同じ、調香師の癖を持つ、同一の毒。長年、この毒を扱ってきた者にしか、宿らぬ匂いだ」
大広間が、凍りついた。
毒を長年扱う者の体には、その匂いが、消えぬ染みのように沁みつく。血が偽れないように、その匂いも、偽れない。母が命を賭して遺した残り香が、十五年の時を越えて、側妃を殺した手を、指し示していた。
「馬鹿な」大公が、初めて、声を荒げた。優雅な仮面は、完全に、剥がれ落ちている。「そんな、匂いなど、証拠になるものか! 令嬢の鼻が、そう言っているだけだ!」
「いいえ」アニエスは、静かに言った。「調香院の、複数の立会人が、確認いたしました。これは、公式の鑑定です。制度の効力を、持ちます。あなたが、幾度も利用してきた、その制度が」
その時、蒼白な顔で見つめていたフェリクスが、ついに、進み出た。
「陛下。私からも、申し上げます」青年の声は、震えていたが、揺るがなかった。「叔父上は、私を継承の第一位に据えるため、様々な手を打ってきました。その中に、このような、企てがあったのなら。私は、偽りの血と、毒の上に立つ王位など、望みません。真実を、明らかにしてください」
担がれていた駒が、自らの意志で、離反した。大公の、最後の後ろ盾が、崩れた。
国王が、ゆっくりと、立ち上がった。
「オーギュスト」その声は、重く、沈んでいた。実の弟を裁く王の、その一言に、深い痛みが滲んでいた。「弟よ。血の鑑定は、この国の継承を守る、神聖な制度。それを欺き、人を毒で葬り、王座を簒おうとした。もはや、言い逃れは、できぬ」
裁定が、下った。
大公は、崩れ落ちた。誰かに罵倒されたのでも、断罪の絶叫を浴びたのでもない。ただ、積み上げられた真実の重みに、優雅な怪物は、静かに、自らの罪の下へ、沈んでいった。十五年、誰にも崩されなかった仮面が、たった一人の令嬢の鼻と、母が遺した一瓶の残り香によって、剥がされたのだ。
軽んじられてきた「血を読む家」の職能が、この国の王座を、偽りから守った。母が命を賭けて守ろうとしたもの。それを、娘が、継ぎ、果たした。
すべてが、決した後。
アニエスは、王城の静かな回廊で、アルヴィスと、二人きりで立っていた。窓の外は、初夏の朝。長い夜が明けて、澄んだ光が、差し込んでいる。
「終わったな」アルヴィスが、静かに言った。
「はい。母の無念も、殿下の母君の悲劇も。ようやく」
しばらく、二人は、黙って、朝の光を浴びていた。やがて、アルヴィスが、口を開いた。
「決戦の後に、話すと言った」灰色の瞳が、まっすぐに、アニエスを見た。「アニエス」
初めて、名を、呼ばれた。「そなた」でも「ラフォンテーヌ嬢」でもなく。その響きに、胸が、跳ねる。
「そなたには、私の匂いが、読めないと言ったな」アルヴィスは、続けた。「誰の嘘も読めるそなたが、私だけは、読めない。……その理由を、教えよう。私が、そなたに対して、本気だからだ。凍らせた感情の、ずっと奥で。私は、そなたを想っている。だから、揺れない。だから、匂いが、漏れない」
アニエスは、息を、呑んだ。
ずっと、怖かった。誰の心も嗅ぎ分けられるのに、この人だけ、読めない。信じていいのか、分からなかった。けれど、その理由が、今、分かった。読めないのは、疑うべき理由では、なかった。読めないほどに、この人が、本気だという、何よりの証だったのだ。
そして、気づく。自分の心もまた、ずっと、読めなかった。この人への想いという、唯一、嗅ぎ分けられない真実。それを、認めるのが、怖かった。
もう、怖くは、なかった。
「わたくしは、香りで、嘘を嗅ぎ分けてまいりました」アニエスは、微笑んだ。涙が、頬を伝う。「香りは、嘘をつきません。だから、わたくしは、真実だけを、信じてきました。……でも、一つだけ、香りでは読めない真実が、あるのですね」
アルヴィスの手が、そっと、アニエスの頬の涙を、拭った。
「香りは、嘘をつかない。だからわたくしは――あなたのこの想いも、信じます」
初夏の光の中で、二人の距離が、静かに、なくなった。
軽んじられた令嬢は、職能ごと、この人に求められ、結ばれた。真実を暴く強さと、唯一読めないものを信じる勇気を、その手に。
香りは、嘘をつかない。そしてアニエスは、これから先、彼のとなりで、その読めない真実を、信じて生きていく。




