第28話 偽りの血は、王の御前で剥がれ落ちた
大広間は、水を打ったように、静まり返っていた。
アニエスは、アルヴィスの腕に支えられながら、最後の一嗅ぎに、意識のすべてを集めた。清めの香が拓いた、細い一筋の道。その先の、リゼットの血の匂い。乾いた、南の痩せた土地の匂い。それが、どの家に繋がるのか。母の血の匂いの図が、記憶の奥で、静かに、一つの答えを指し示す。
三度、確かめた。母の教えの通り、深く、静かに、三度。急いてはならぬ。焦れば、鼻は誤る。母の声を胸で唱えながら、一度、二度、三度と、慎重に、確かめる。
もう、間違いようがなかった。答えは、最初から、はっきりと匂っていた。ただ、それを公の場で告げるには、母の教えた通り、三度の確認が要った。
「申し上げます」アニエスは、震える、けれど揺るがぬ声で、告げた。「リゼット・オルネ嬢の血は、オルネ男爵家の血筋では、ありません。オルネ家は、北の湿った領地の家系。けれど、この方の血は、南の、乾いた痩せた土地の匂い。決して、交わらぬ血です」
声を、一度、区切る。朦朧とする意識の中で、それでも、告げるべきことを、はっきりと。
「そして、この方の血は、さる高位の血筋に、通じております。宮廷の、頂に近い、ある家の血に」
立会の調香師たちが、母の秘伝の手順に従い、順に、その血を確かめる。一人が、頷く。また一人が、頷く。バルテルミーが、最後に嗅ぎ、重々しく口を開いた。
「調香院として、確認する。リゼット・オルネの血は、名乗る男爵家のものに、あらず。これは、血統の詐称である。以上、複数調香師の確認をもって、公式に裁定する」
制度の効力を持つ、裁定が、下った。玉座の国王が、静かに、けれど確かに、頷いた。血の鑑定は、この国の継承を担保する、神聖な制度。その公式の裁定は、何よりも重い。
もう、覆せない。王弟の一存でも、優雅な弁舌でも、この公式の裁定を、崩すことはできない。血は、偽れない。名を変えても、涙で塗り固めても、体の奥から立つ匂いだけは、決して欺けなかった。
リゼットが、崩れ落ちた。膝から、大広間の床へ。もう、可憐な微笑みも、涙の演技も、どこにもない。
「……わたし、は」掠れた声が、漏れた。「わたしは、ただ……男爵家の娘だと、そう言われて、そう振る舞えと。後ろ盾のない、わたしのような娘が、生き延びるには……従うしか、なかった」
素の告白だった。追い詰められて、初めて漏れた、本当の言葉。この娘もまた、大公の駒として、偽りの血を着せられ、使い捨てられる立場だった。名も、生まれも、自分のものではなく、与えられた役を演じることでしか、生きられなかった。婚約破棄の夜、アニエスを陥れた涙は、演技だった。けれど、今、床に崩れて漏らす涙は、本物だった。
アニエスは、その姿を、ただ静かに見ていた。憎しみは、湧かなかった。ただ、哀れだった。この娘を憎むことは、たやすい。けれど、本当に憎むべきは、この娘に偽りの血を着せ、駒として使い、いま使い捨てようとしている、あの男だった。
そして、婚約破棄の偽装も、白日の下に晒された。工房主の証言、偽装香水の物証、大公家の発注の記録。ベルトランが人前で突きつけた「不貞の証拠」は、大公家の仕込んだ偽物だったと、公式に確定した。
末席で震えていたベルトランは、もう、顔を上げられなかった。近衛騎士の誇りも、伯爵家嫡男の矜持も、砂のように崩れ落ちている。
「お、俺は……俺も、騙されたのだ」ベルトランが、掠れた声を絞り出した。「リゼットに、大公家に、俺は利用されただけで」
けれど、その言い訳は、誰の心にも届かなかった。自分で確かめもせず、偽の証拠を鵜呑みにし、人前で婚約者を辱めた。その浅慮こそが、彼の罪だった。誰も、彼を罵らない。ただ、事実だけが、彼の愚かさを照らし出していた。他人の細工に踊らされ、十年支えてくれた婚約者を、人前で辱め、捨てた男。その顛末を、宮廷じゅうが、冷ややかに、見ていた。かつて「格下の女」と侮った相手に、今、完全に、見下ろされる側へと、転落していた。
これが、母の教えた戦い方だった。断罪の言葉は、要らない。真実を、揺らがぬ形で、置く。あとは、嘘をついた者が、自分の嘘の重みで、勝手に沈んでいく。加害者たちは、誰かに裁かれたのではない。自らの偽りによって、自滅したのだ。
アニエスの尊厳は、完全に、回復した。「令嬢の戯言」「職人風情」と侮られてきた鼻が、王の御前で、真実を照らし、偽りを剥がした。父にすら認められなかったこの職能が、今、宮廷じゅうの敬意を、集めている。かつてアニエスを白い目で見た者たちが、今は、畏敬の眼差しを向けている。
けれど、勝ち誇る気持ちは、なかった。溜飲が下がる、というのとも、少し違う。ずっと自分を軽んじてきた者たちが、自らの浅慮と偽りで、崩れ落ちていく。そこにあるのは、静かな確かさだけだった。真実は、声を荒げない。ただ、そこにあるだけで、嘘をついた者を、裁いていく。母が、そう教えてくれた通りに。
けれど、アニエスは、まだ、矛を収めなかった。
支えられながら、ゆっくりと、玉座の傍らに立つ、一人の男へ、顔を向ける。
「詐称の血が、通じる先。リゼット嬢に偽りの血を着せ、宮廷へ送り込んだ者」アニエスの声が、大広間に、静かに響いた。「そして、十五年前、この国のさる側妃を、毒で葬った者。その手の主が、今も、この場に、おられます」
大広間の視線が、一斉に、その男へと集まった。
オーギュスト大公。優雅な微笑みは、もう、その顔から、完全に消えていた。表情という表情を、削ぎ落とした、能面のような顔。追い詰められた怪物が、初めて見せた、素の貌だった。
横軸の偽りは、すべて剥がれ落ちた。婚約破棄も、偽証も、詐称も。加害者たちは、自らの嘘の重みで、次々と崩れていった。残るは、黒幕の本丸。母を殺し、側妃を殺し、偽りの血で王座を簒おうとした、その手だけ。
けれど、アニエスの体は、限界を、とうに超えていた。清めの香は、尽きた。嗅覚は、焼き切れる寸前。そして、追い詰められた大公は、決して、おとなしく縄につく男ではない。
最後の対決へ、すべてが、収束していく。優雅な仮面を剥がされた怪物が、次に何を放つのか。その気配を、アニエスの霞む意識は、辛うじて、警戒していた。




