第27話 そなたを失いたくはない、と氷が言った
「陛下。どうやら、令嬢は、お加減が優れぬご様子」
大公の声が、優雅に、大広間に流れた。倒れかけたアニエスを、目ざとく捉えている。
「無理をさせては、気の毒でございます。鑑定は、日を改めて、令嬢が本復してから、続けるのがよろしいかと。継承に関わる神聖な儀礼。焦って結論を急ぐべきでは、ございますまい」
柔らかな、思いやりに満ちた言葉。けれど、その本当の狙いを、アニエスは、はっきりと嗅ぎ取っていた。
中断。それこそが、大公の一手だった。ここで鑑定が止まれば、大公は時間を稼げる。証人を消し、証拠を握り潰し、リゼットを別の筋書きで守り、態勢を立て直す。勝利の直前で、すべてが、流される。
王が、思案の色を浮かべた。確かに、令嬢は、今にも倒れそうに見える。無理を続けさせるのは、酷に思えた。大公の申し出は、表向き、どこまでも人道的だった。だからこそ、抗いにくい。
けれど、アニエスには、分かっていた。一度この場を離れれば、二度と、この機会は戻らない。大公は、あらゆる手で、鑑定そのものを、なかったことにする。証人は消え、リゼットは遠くへ隠され、証拠は闇に葬られる。今日、この場で嗅ぎ切らなければ、母の死も、側妃の死も、永遠に、優雅な微笑みの下に、封じられてしまう。
「……お待ちください」アニエスは、掠れた声を、振り絞った。「まだ、続けられます。日を改める、必要は、ありません」
「しかし、令嬢」大公が、労るように言った。「そのお体では」
「わたくしの体を、案じてくださるのですか」アニエスは、大公を見た。膝は震え、視界は霞んでいる。それでも、その目だけは、揺るがなかった。「それとも、わたくしが今、嗅ぎ切ることを、恐れておいでですか。日を改めれば、その間に、都合の悪いものを、すべて始末できますものね」
大公の微笑みが、ほんの一瞬、凍りついた。周囲の重臣たちの視線が、大公へと集まる。中断を急ぐその様子が、かえって、疚しさを匂わせていた。アニエスは、罵らない。ただ、事実の重みだけで、相手の焦りを、皆の前に、そっと差し出した。
その時だった。
「陛下。私からも、願い上げます」
アルヴィスが、進み出た。そして、大広間じゅうが見つめる中で、倒れかけたアニエスの体を、しっかりと、腕に抱き支えた。氷の殿下が、人前で、一人の令嬢を抱き寄せる。あり得ない光景に、大広間が静まり返った。
「アルヴィス、何を……」王が、目を見張る。重臣たちも、息を呑んだ。氷の殿下と噂される第二王子が、人前で、誰かに触れることすら、これまで、一度もなかったのだから。
アルヴィスは、アニエスだけを見ていた。いつも感情を殺し、何も読ませなかったその顔に、今、はっきりと、隠しようのない色が浮かんでいた。
「そなたを、失いたくはない」低い声が、震えていた。「無理を続ければ、そなたが潰れる。私は、それが、恐ろしい。……だが」
言葉が、一度、途切れた。
「だが、そなたが、続けると選ぶなら。私は、そなたを、信じる。そなたの鼻を。そなたの覚悟を。止めはしない。だから、倒れるな。私が、支える」
感情を殺して生きてきた人だった。感情を見せれば狙われると学び、九歳で凍りついた人。その人が今、大広間じゅうの目の前で、その氷を、自ら割った。狙われる危険も、政敵に足元を見られることも、すべて承知の上で。ただ、一人の令嬢を、支えるために。
香では、何も読めない。この人の本心は、いつも、匂いの向こうにあった。それが今、匂いではなく、言葉と、腕の力と、震える声で、まっすぐに伝わってくる。香で読めないことが、これほど雄弁に、その本気を語るとは。
読めない相手が、こんなにも、熱い。
アニエスの胸の奥で、ずっと張り詰めていた何かが、ほどけた。恐れていた。読めない相手を、信じていいのか、ずっと迷っていた。誰の嘘も嗅ぎ分けられるのに、この人の心だけは、読めない。だから、怖かった。信じた先に、裏切りがあったら。母のように、自分も。
けれど、今だけは、迷っている場合ではなかった。この人が、氷を割ってまで、自分を支えると言っている。ならば、その手を、信じる。読めなくても、いい。今は、この人に、体をあずける。それだけで、震えていた膝に、力が戻った。
なぜ、この人だけ読めないのか。その本当の意味を、アニエスは、まだ知らない。ただ、読めないことが、初めて、怖くなかった。
「……はい」アニエスは、頷いた。掠れた声に、力が戻る。「続けます。あなたが、支えてくださるなら。わたくしは、最後まで、嗅ぎ切ります」
アルヴィスの腕の中で、アニエスは、母の香料箱から、最後の秘香を取り出した。残りは、これで、尽きる。たった一度の、最後の一嗅ぎ。そこに、すべてを賭ける。
母の教え、母の秘伝、母の遺した技。そして、隣で支えてくれる、この人。独りではない。もう、決して、独りではなかった。婚約破棄の夜、たった一人で拳を握った令嬢は、もう、どこにもいない。母がいて、味方がいて、この人がいる。その温もりが、燃え尽きかけた鼻に、最後の力を、灯した。
最後の秘香に、火を移す。清らかな香が、朦朧とする意識の中に、細い一筋の道を、もう一度、拓いていく。会場の全員が、固唾を呑んで見守っている。バルテルミーは祈るように、ネリは両手を握りしめて、ロランは油断なく大公の一挙一動を睨んで。味方たちの気配が、背中を支えてくれる。
大公の顔からは、もう、優雅な微笑みが、消えていた。余裕を装いながらも、その体からは、初めて、焦りの匂いが、うっすらと立ち始めている。この十五年、一度も崩れなかった男が、たった一人の令嬢の鼻に、追い詰められつつあった。
アニエスは、アルヴィスの腕の確かさを背に感じながら、深く、息を吸い込んだ。清められた一筋の道を通って、リゼットの血の匂いだけが、まっすぐに、鼻の奥へ届いてくる。
この一嗅ぎに、母の無念も、側妃の命も、自分の尊厳も、この国の血の正統も、すべてが、かかっている。焼き切れかけた鼻の、最後の力を、この一点に、注ぎ込む。
次の瞬間、リゼットの血の真実が、公式の場で、白日の下に、晒される。




