第26話 血を読む家の真髄が、公の場で目を覚ます
アニエスは、母の香料箱を、静かに開いた。
鑑定の大広間。まだ、香炉の煙は残っている。完全には引かせられなかった、匂いの嵐。その中で、アニエスは、秘伝の香を取り出した。母が遺した、血を読む家の真髄。強い香を退け、対象の「血の匂い」だけを、一点、浮かび上がらせる調香。
香玉に火を移すと、清らかな、鋭い香が、細く立ちのぼった。薄荷に似た、けれどもっと澄んだ、ひやりとする香り。母の手帳には、この調香の作り方だけが、他の頁より何倍も丁寧に、書き込まれていた。血を読む家が、幾代もかけて磨き上げた、真髄の一つ。
不思議だった。その香が広がると、渦巻いていた濃密な匂いが、まるで水面に落ちた油のように、すっと左右へ分かれていく。荘厳な香の嵐の中に、たった一筋、澄んだ道が拓けた。母の秘伝は、香で香を制する技だった。強い香を、力で押しのけるのではない。ただ一点、鼻の通り道だけを、清めて開く。
周囲の調香師たちが、息を呑んだ。この技を、誰も知らない。宮廷調香の頂点にいる者たちすら、初めて目にする調香法だった。
この道の先に、リゼットが立っている。
アニエスは、母の走り書きを、胸の中で唱えた。急いてはならぬ。深く、静かに、三度確かめてから告げよ。焦れば、鼻は誤る。母の声が、こわばりかけた指を、静かに支えてくれる。
アニエスは、温存してきた嗅覚を、今、解き放った。細く、深く、息を吸う。清められた一筋の道を通って、リゼットの体が放つ、血の匂いだけが、まっすぐに届く。
乾いた、南の痩せた土地の匂い。
やはり、オルネ男爵家の血では、ない。
「調香院の、立会の皆様に」アニエスは、複数の調香師に向けて、声を張った。「これより、母より受け継いだ手順で、リゼット・オルネ嬢の血を、鑑定いたします。どうぞ、お一人ずつ、この清めの香の道を通して、確かめてください」
母の秘伝の手順に従い、調香師たちが、順に、その一筋の道を通して、リゼットの血を嗅ぐ。強香に阻まれていた匂いが、今、はっきりと届く。一人が、眉をひそめた。もう一人が、隣の調香師と、顔を見合わせる。
「……確かに。この血は、北の湿地の家系のものではない」年嵩の調香師が、低く言った。「オルネ男爵家は、北の家。だが、この娘の血は、南の、乾いた土地の匂い。血筋が、まるで違う」
どよめきが、大広間に広がった。居並ぶ重臣たちが、扇の陰で囁き交わす。破談で名を落とした令嬢の戯言、と嗤っていた者たちの顔から、その侮りが、みるみる剥がれ落ちていく。
軽んじられてきた「血を読む家」の技が、今、王の御前で、公然と目を覚ました。母が担い、命を落としてまで守ろうとした職能。「職人風情」「令嬢の戯言」と侮られ続けたその技が、王家の継承の正統を左右する裁定の場で、真実を照らし出している。
アニエスの胸に、熱いものが込み上げた。母さん、見えていますか。あなたが遺したものが、今、こんなにも大きな場所で、力を持っています。父に疎まれ、宮廷に侮られ、それでも母は、この技を娘に継がせた。その意味が、今日、ようやく、実を結ぼうとしていた。
バルテルミーが、調香院主席として、進み出た。
「調香院として、この手順の正しさを、保証する」老いた師の声が、大広間に響いた。「これは、血を読む家に古くから伝わる、正式な鑑定法。手順に、一点の瑕疵もない。ここで示された血の判定は、公式の効力を持つ」
師の言葉が、アニエスの鼻を、制度の効力へと押し上げた。単独の主張なら「令嬢の戯言」で終わる。だが今、調香院主席の保証と、複数調香師の確認手順に乗った判定は、王弟の一存でも、覆せない。
リゼットの顔から、血の気が引いていた。もう、涙の演技も、可憐な微笑みも、出てこない。血は、偽れない。どれほど巧みに素性を偽っても、体の奥から立つ匂いだけは、決して塗り替えられない。母の遺した言葉が、今、証明されていた。たとえ本人が忘れても、たとえ名を変えても。
「わたし……わたしは……」リゼットの唇が、震えた。追い詰められた者の、酸い匂いが立つ。けれど、アニエスは、この娘を、言葉で追い詰めはしなかった。ただ、事実を、置いていくだけ。
この娘も、駒だった。後ろ盾のない身で宮廷に生き延びるために、偽りの血を着せられ、大公の言うまま、アニエスを陥れる役をやらされた。憎むには、あまりに哀れだった。血の匂いの奥に、この娘自身の、寄る辺なさが滲んでいる。断罪は、しない。それは、母の教えであり、この娘への、せめてもの情けでもあった。
玉座の傍らで、大公の優雅な微笑みに、初めて、影が差した。ほんのわずか、口元が、強張る。予定していた「令嬢の醜態」の代わりに、目の前で、自分の駒の血が、剥がされていく。この男が、初めて見せた、計算外の色だった。
アニエスは、さらに鼻を澄ませた。リゼットの血の、その奥。南の乾いた血筋。それが、どこの家に繋がるのか。母の血の匂いの図が、記憶の中で、一つの家名を指し示す。
その血は、高位の、ある血筋に、通じていた。この場にいる、誰かの血に。
けれど、そこまで嗅ぎ取ろうとした瞬間、こめかみが、割れるように痛んだ。目の前が、白く霞む。温存していたとはいえ、この強香の中で鼻を酷使すれば、代償は、容赦なく襲ってくる。膝が、かくりと折れかけた。
「ラフォンテーヌ嬢!」
傍らのアルヴィスが、素早く肩を支えた。
「大丈夫か」アルヴィスが、耳元で低く問う。その腕の確かさに、崩れかけた膝が、辛うじて留まった。
「……まだ、です」アニエスは、脂汗の滲む額を、必死で上げた。「まだ、嗅ぎ切っていません。あの血が、誰に繋がるのか。それを示さなければ、大公には、届かない」
詐称は、露見寸前だった。あと一歩。リゼットの血が「どの高位の血筋」に通じるのか。それを嗅ぎ切れば、この計画を仕組んだ一点に、すべてが集まる。
けれど、アニエスの体は、もう、限界に近い。清めの香玉も、残りわずか。そして、余裕を失いかけた大公が、その隙を、見逃すはずが、なかった。優雅な仮面の下で、この男が次に何を放つのか。アニエスの鼻は、その気配を、警戒していた。




