第25話 鼻を潰す香の洪水の中で、一嗅ぎを温存する
鑑定の大広間へ足を踏み入れた瞬間、アニエスの鼻を、香の洪水が殴りつけた。
初夏の朝。大公が指定した会場は、想像を超えていた。壁という壁に、大ぶりの香炉が据えられ、そのすべてから、濃密な煙が立ちのぼっている。薔薇、龍涎、乳香、没薬。継承の儀礼にふさわしい「荘厳な香」という名目で、広間は、匂いの嵐に沈んでいた。
舞踏会の比ではない。ここまで強い香に囲まれては、細い匂いなど、掻き消されて何も読めない。血の匂いを嗅ぎ分けるどころか、立っているだけで、頭がくらくらした。目の奥が、ちかちかと明滅する。鼻の奥が、灼けるように痛い。
これが、大公の罠だった。会場そのものを、武器にする。剣も毒も使わず、ただ「荘厳な香」という名目で、アニエスの最強の武器を、開始前に無力化する。誰も咎めようがない。継承の儀礼に、豪奢な香を焚くことの、どこがいけないのか。優雅で、合法で、そして、残酷な一手だった。
鑑定の中央には、リゼットが立たされていた。青ざめ、俯いて、けれど、逃げ場もなく。彼女もまた、大公の駒として、この場に引き出されている。詐称の血を、暴かれるために。
「見事な、儀礼の香でございましょう」玉座の傍らで、大公が、優雅に微笑んだ。その目は、アニエスだけを見ていた。継承の神聖を寿ぐ荘厳な香。表向きは、非の打ちどころがない。けれど、その本当の狙いは、たった一つ――アニエスの鼻を、鑑定が始まる前に、潰すこと。
最強の武器を、開始前に、封じられる。絶体絶命だった。この香の中で、リゼットの血を嗅ぎ分けろというのは、耳を塞がれたまま、囁き声を聞き取れと言うに等しい。
けれど、アニエスは、崩れなかった。
こういう場も、想定していた。敵の土俵である以上、鼻を潰す妨害は、必ず来る。だから、備えてきた。
アニエスは、袖に忍ばせた母の香料箱から、小さな香玉を取り出し、そっと鼻先にかざした。母の秘伝の一つ。強すぎる香から鼻を守り、感覚を「一点に絞る」ための調香だった。清涼な、鋭い香が、嵐のような匂いの中に、細い一本道を切り拓く。
それでも、完全には、防げない。香の洪水は、じわじわと、鼻の奥を灼いていく。こめかみが、鈍く痛み始めた。あの、嗅ぎすぎたときの、代償の予兆。長くは、持たない。
アニエスは、悟った。この環境で、鼻を働かせ続ければ、鑑定の途中で、必ず倒れる。あの茶会のときのように。ならば、選択肢は、一つ。
鼻を、温存する。
この嵐の中で、匂いを読もうと足掻けば、肝心の勝負所の前に、嗅覚は焼き切れる。だから、今は使わない。ぎりぎりまで、鼻を休ませ、その代わり、たった一度、決定的な一嗅ぎに、すべてを賭ける。
「殿下」アニエスは、傍らのアルヴィスに、小声で告げた。「この香では、今は、何も読めません。ですが、無理に読もうとすれば、勝負の前に倒れます。……一度だけ、決定的な一嗅ぎを、温存します。それまで、時間を、稼いでいただけますか」
「任せろ」アルヴィスの声は、揺るがなかった。「時間なら、いくらでも作る。そなたは、その一嗅ぎだけを、守れ」
アルヴィスは、進み出て、王に奏上した。
「陛下。血の鑑定は、調香院の定めた作法に則るのが、古来の慣わし。これほど強い香が焚かれていては、鑑定の公正が、保てませぬ。儀礼の香は、鑑定のあいだ、しかるべく減じるべきかと」
大公が、優雅に反論する。だが、そこへ、バルテルミーが、調香院主席として進み出た。
「殿下の仰る通り」老調香師の声は、揺るぎなかった。「調香院の血鑑定は、無風・無香に近い場で行うのが、正式な手順にございます。強香の中での鑑定は、古来、無効とされてまいりました。これは、この年寄りが、調香院の名にかけて、保証いたします」
制度の正しさが、大公の罠に、楔を打ち込んだ。手順を握る者が強い。その理屈で、これまで幾度も退けられてきた。けれど今日は、その同じ理屈が、こちらの武器になった。正式な血鑑定は、無風・無香に近い場で行う。それが、調香院の、動かせぬ手順。大公とて、制度そのものを、公然とは踏みにじれない。
王の命で、香炉のいくつかが、下げられていく。完全にではない。大公も、すべては引かせない。けれど、確かに、匂いの嵐が、少しだけ、弱まった。ほんの少し。それでも、その隙間が、アニエスには、命綱だった。
ロランも、警備の名目で会場を検め、香炉の配置に難癖をつけ、時間を稼ぐ。味方たちが、それぞれの持ち場で、大公の土俵を、じわじわと切り崩していく。
その間、アニエスは、じっと、鼻を休ませていた。清涼な香玉で、辛うじて嗅覚を守りながら。目を伏せ、呼吸を最小限に絞り、香の嵐をやり過ごす。読もうとしない。あえて、鼻を眠らせておく。
母の秘伝の走り書きが、耳の奥で響いた。『鑑定は急いてはならぬ。焦れば、鼻は誤る』。焦って、この嵐の中で嗅ごうとすれば、嗅覚は焼き切れ、肝心の一嗅ぎができなくなる。母は、こういう妨害さえ、見越していたのかもしれない。だから、急くなと、繰り返し娘に説いた。
体は、もう限界に近い。こめかみの痛みは、引かない。額に、脂汗が滲む。それでも、アニエスは、耐えた。この一戦で、母の遺した鼻を、たった一度、完璧に働かせる。その一点のために、今は、すべてを堪える。
大公が、こちらを見ていた。その優雅な微笑みの下に、かすかな苛立ちが、滲み始めている。倒れるはずの令嬢が、倒れない。予定していた「令嬢の醜態」が、一向に、訪れない。
守勢の中に、反撃の一点が、見えてきた。
あとは、温存した鼻の、たった一度の一嗅ぎに、すべてがかかる。この嵐の中で、ただ一度、完璧に嗅ぐ。リゼットの血の匂いを、大公の血筋との近さを、複数の立会人の面前で、言い逃れのできない形で、示す。その一瞬に、母の命も、側妃の命も、自分の尊厳も、この国の血の正統も、すべてが、乗っている。
アニエスは、袖の中の母の香料箱を、そっと握りしめた。指先に、木の温もりが伝わる。独りではない。母が、味方が、そして彼が、この場にいる。血を読む家の真髄が、今、この場で、試されようとしていた。




