第24話 王の御前で、鼻ひとつが天秤にかけられる
謁見の間は、荘厳な沈黙に満ちていた。
高い天井、金糸の織り込まれた壁掛け、玉座に座す国王。その両脇に、宮廷の重臣たちが居並んでいる。アニエスは、アルヴィスとともに、その中央に進み出た。かつて、「令嬢の戯言」と退けられ続けた自分が、今、国王の御前に立っている。膝が、震えそうになるのを、こらえた。
「陛下に、上奏いたします」アルヴィスが、王族の権限をもって、口を開いた。「宮廷に、血統を詐称して潜り込んだ者がおります。そして、その背後には、十五年前の側妃毒殺、八年前の宮廷調香師の不審死、さらには現下の毒殺未遂まで連なる、一連の企てがございます。これらを明らかにするため、公式の血鑑定の開催を、願い出ます」
ざわめきが、重臣たちのあいだに走った。
アニエスは、進み出て、証拠を提示した。婚約破棄の偽装、その発注元が大公家であるという工房主の証言、十五年前の残り香を封じ込めた物証、そして、リゼットの血が大公の血筋に近いという鑑定の心証。声を荒げず、誰も名指しで断罪せず、ただ、揺らがぬ事実だけを、一つずつ、玉座の前に置いていく。
王が、証拠の一つひとつに、静かに目を通していく。謁見の間の空気が、じりじりと張り詰めていく。アニエスの背後では、バルテルミーが調香院主席として控え、証言を裏づける用意をしていた。かつて、たった一人で「令嬢の戯言」と退けられた場所とは、まるで違う。今日は、事実と、証人と、味方が、傍らにある。
その一部始終を、大公が、優雅に眺めていた。少しも慌てず、むしろ余裕すら漂わせて。その落ち着きが、かえって不気味だった。この男は、この程度の上奏で崩れるほど、浅くはない。
「陛下」やがて、大公が、柔らかく口を開いた。「実に、想像力豊かな物語でございますな。ですが、これらはすべて、破談で名を落とした令嬢の、逆恨みにすぎませぬ。証拠と申しても、香が匂うだの、血が近いだの。どれも、この娘の鼻が、そう言っているというだけ。証人とて、金で雇えば、何とでも申しましょう」
真綿で包むような、優雅な反論。誰も傷つけぬ物腰で、けれど、アニエスの主張を、「令嬢の思い込み」へと、静かに引きずり下ろしていく。いつもの、あの手だった。
けれど、今日は、一人ではなかった。
「陛下」アルヴィスが、一歩、前に出た。「叔父上は、鼻が匂うだけ、と仰る。ならば、その鼻が正しいかどうか、公式の場で、確かめればよいのです。調香院の手順に則り、複数の調香師が立会い、リゼット・オルネの血を、公然と鑑定する。それで白黒がつく。逃げも、隠れも、できぬ形で」
国王が、初めて、口を開いた。低く、重い声だった。
「一理ある」王は、大公とアルヴィス、そしてアニエスを、順に見た。「言葉の応酬では、真偽は分からぬ。ならば、公式の血鑑定で、白黒をつけよ。それが、この国の血の正統を守る、調香院の役目であろう」
裁可が、下った。
アニエスの胸が、大きく脈打った。公式の血鑑定。制度の急所を、ついに、制度の最上位の場に、乗せた。軽んじられてきた鼻ひとつが、今、国王の御前で、天秤にかけられようとしている。母がかつて担い、命を落としてまで守ろうとした役目。その舞台が、娘の手で、王の御前に、ようやく開かれた。ここで詐称を証明できれば、大公の優雅な仮面は、剥がれ落ちる。母の死も、側妃の死も、闇から引きずり出せる。
だが、大公は、少しも動じなかった。
「結構でございます」大公は、鷹揚に微笑んだ。「潔白であれば、鑑定など、恐れることはありませんからな。ただ――公正を期すため、一つだけ。鑑定の場と、その作法については、ぜひ、この私めに、お任せいただきたい。継承に関わる神聖な儀礼です。格式ある場と、正しい作法で執り行うのが、筋というもの」
その一言に、アニエスの背筋が、冷たくなった。
鑑定の場と、作法を、大公が指定する。表向きは、公正と格式のため。けれど、その裏にあるのは、明白な罠だった。大公は、鑑定の舞台そのものを、自分の土俵に変えるつもりだ。アニエスの鼻を、開始前に、潰すために。
王は、その申し出を、公正なものとして、受け入れた。継承の儀礼は格式を重んじる。王弟がそれを整えると言えば、断る理由はない。理屈の上では、非の打ちどころのない申し出だった。だからこそ、抗えない。大公は、いつもそうだ。正論の顔をした罠を、優雅に差し出す。
舞台は得た。けれど、その舞台は、敵の手のひらの上だった。勝ち取ったはずの公式鑑定が、そのまま、アニエスの鼻を潰すための処刑台に、変わろうとしていた。
その夜、離宮で、二人は妨害を織り込んだ作戦を、最終確認した。強い香で嗅覚を潰される可能性。段取りで追い詰められる危険。どこまで想定しても、敵の土俵である以上、不安は拭えなかった。
打ち合わせが一段落したとき、アルヴィスが、ふと、手を止めた。灯りに照らされた横顔が、いつもより、迷っているように見えた。
「……そなたに、話しておきたいことがある」低い声だった。「だが、今ではない。決戦が、終わったら」
「なんでしょう」
「勝っても、負けても、その時に言う」アルヴィスは、まっすぐにアニエスを見た。「だから、必ず、生きて帰れ。……それだけだ」
香では、何も読めない。それでも、その言葉の奥に、何かが、確かに息づいていた。氷の殿下が、決戦の前に、わざわざ「その後」を約束する。それが何を意味するのか、鈍いアニエスにも、さすがに、分かりかけていた。頬が、熱くなる。けれど、今は、その先を問う時ではなかった。アニエスは、頷くことしか、できなかった。
勝てば、真実も、想いも、明かされる。負ければ、すべてを失う。命も、名誉も、そしてこの人との、まだ言葉にならない何もかもも。
窓の外は、初夏の夜。虫の声が、静かに響いている。アニエスは、母の香料箱を、胸に抱いた。母さん、と、心の中で呼びかける。明日、あなたの遺したもので、あなたを奪った手を、暴きます。どうか、この鼻に、力を。
最大の一戦は、明日。すべては、大公の土俵の上で、決する。




