第23話 令嬢の戯言を、信じる者たちが集った
離宮の書斎に、味方が集った。
かつて、たった一人で戦っていた。父にも疎まれ、婚約者に裏切られ、社交界に嗤われて。「令嬢の戯言」と、あらゆる主張を退けられて。それが今、この部屋には、自分の言葉を信じる者たちが、集まっている。
「調香院の良識派を、動かした」バルテルミーが、重々しく口を開いた。老いた師の顔に、久しぶりの気概があった。「公式の血鑑定が開かれるなら、手順の公正を、この年寄りが保証しよう。大公派に通じておらぬ調香師を、わしが選ぶ。それなら、鑑定を内側から歪められはせん」
解任されたアニエスを、庇いきれなかった師。制度の壁の前で、無力を噛みしめた師。その人が今、自らの権威と信用を賭けて、鑑定の公正を守る側に立ってくれている。
「わしは、お前さんの母上を守れなかった」バルテルミーの声が、低く沈んだ。「あの方が急に逝かれたとき、わしは何もできなんだ。ただ、病だと聞かされて、それを信じた。いや、信じたふりをして、目を逸らした。その悔いを、今度こそ、晴らさせてくれ」
師の目に、老いてなお消えぬ、鋭い光があった。この人もまた、長い年月、後悔を抱えてきた一人だった。
「俺は、護衛と、実働を引き受ける」ロランが、太い腕を組んだ。「あの夜みたいに、大公が刺客を放つかもしれん。鑑定の当日まで、あんたには指一本触れさせねえ。それに、殿下があんなに一人の令嬢に肩入れするのを、俺は初めて見た。守る理由には、十分だ」
「あたしは、薫街です」ネリが、意気込んで前に出た。「工房主さん以外にも、大公家の使いを見た者が、薫街にはいます。証人になってくれそうな人を、あたしが繋ぎます。危ないのは、慣れっこですから」
「ネリ、無理は」
「お嬢様こそ、無理ばっかりでしょう」ネリが、口を尖らせて言い返した。その減らず口が、張り詰めた空気を、少しだけ和らげた。
そして、思いがけない後ろ盾もあった。茶会で毒杯から救った、あの公妃。王の従妹にあたるその人が、恩義に報いると、王への取り次ぎを申し出てくれたのだ。無礼を承知で毒杯を止めた、あの一瞬が、今、王へ続く細い道を、開こうとしていた。
孤立無援だった主人公の周りに、初めて、陣営ができた。香りの職能そのものが、人を動かしたのではない。その職能が、これまで積み重ねてきた真実と、救った命と、守った誠実さが、人の心を動かしたのだ。
婚約破棄の夜、広間で自分を庇う者は、一人もいなかった。値踏みする沈黙だけが、背中に張りついていた。あれから、まだ二月ほどしか経っていない。それなのに、今、この部屋には、命を賭けて隣に立ってくれる人々がいる。泣かずに、嗅ぎ当てて、事実を積み続けてきた。その一つひとつが、こうして、味方という形で、返ってきている。
アニエスは、集った顔ぶれを、ゆっくりと見渡した。目の奥が、熱くなるのを、こらえた。
その日の午後、アニエスとアルヴィスは、もう一人の人物に会いに行った。
第一王子フェリクス。大公に担がれ、継承の第一位に据えられようとしている、王子だった。王城の一室で会ったその人は、噂に聞くよりずっと、線の細い、穏やかな青年だった。
「アルヴィス。それに、噂の……ラフォンテーヌ嬢か」フェリクスは、落ち着かなげに視線を泳がせた。「叔父上は、君を、危険な女だと言っていた。破談の腹いせに、宮廷を掻き回す令嬢だと」
「では、殿下ご自身の目で、お確かめください」アニエスは、静かに言った。証拠の断片と、これまでの経緯を、感情を交えず、事実だけを並べていく。婚約破棄の偽装、毒の同一性、血統詐称、そして暗殺未遂。声を荒げず、大公を罵らず、ただ、揺らがぬ事実だけを、一つずつ、置いていく。
母の教えだった。断罪は、しない。事実を、置く。あとは、それを聞いた者が、自分の頭で、判じればいい。恐怖で吐かせた言葉が真実とは限らないように、憎しみで告発した言葉も、人の心には届かない。届くのは、揺らがぬ事実だけ。
フェリクスの顔から、少しずつ、血の気が引いていった。優柔なこの青年にも、事実の重みは、確かに伝わっていた。
「……そんな。叔父上が、そこまで」
「殿下は、ご自分の継承が、どのように用意されたか、ご存じですか」アルヴィスが、静かに問うた。「叔父上が、なぜここまで、あなたを推すのか」
フェリクスは、答えられなかった。ただ、震える指で、額を押さえた。
「私は……野心など、なかった。王になどなりたくないと、ずっと言ってきた。それを、叔父上が」青年の声は、掠れていた。「叔父上の言うことが、いつも正しいわけでは、ないのかも、しれないな」
敵陣に、亀裂が入った。担がれる駒が、自分を担ぐ手の、本当の狙いに、初めて疑いを抱いた。フェリクスは、悪人ではない。ただ、優しく、優柔で、叔父の掌の上で踊らされていただけの青年だった。
王城を辞す間際、フェリクスは、去ろうとする二人の背に、ぽつりと声をかけた。
「もし……もし、私の継承が、偽りの血の上に立っているのだとしたら」青年の声は、震えていた。「私は、それを、望まない。真実が、知りたい。たとえ、それが、私の立場を、失わせるものだとしても」
その一言が、決定的だった。担がれる駒が、自らの意志で、真実の側へ、半歩、踏み出した。アニエスは振り返り、深く一礼した。優しさゆえに利用されてきた青年の、その優しさが、今、大公の計画に、亀裂を入れた。
その夜、離宮へ戻ると、アルヴィスが、手応えのある声で告げた。
「公妃を通じて、王の耳に、話が届いた。王は、公正を重んじる御方だ。公式の血鑑定を開くことに、傾いておられる」
勝機が、見えた。味方は集い、敵陣には亀裂が入り、王も動きかけている。長い、孤独な戦いの果てに、ようやく、光が差し込んできた。父にも認められず、ただ一人で抱えてきた鼻が、こんなにも多くの人の力を、束ねている。じんと、胸の奥が熱くなった。
けれど、アニエスの鼻は、その光の裏に、まだ濃い影が潜んでいることを、感じ取っていた。大公が、この流れを、黙って見ているはずがない。勝機が見えたその瞬間こそ、最も、危ういのだ。




