第22話 消えた工房主が、すべての設計者を指し示す
その男は、痩せて、頬がこけていた。
薫街から姿を消した、あの工房主だった。夜逃げでも、神隠しでもない。アルヴィスの手の者が、大公の刺客より先に見つけ出し、密かに保護していたのだ。もし発見が一日遅れていれば、この男も、闇に葬られていただろう。証拠を握り潰す大公の手は、それほど速かった。離宮の一室で、男は、怯えきった目で、けれど、どこか腹を括った顔で、椅子に座っていた。追われ、隠れ、怯えて過ごした日々が、その頬の肉を、そげ落としていた。
「殿下と、令嬢さんには、恩がある」男は、掠れた声で言った。「あのまま黙って消されるより、真実を話して死んだほうが、まだ、ましだ」
アニエスは、男の体から立つ匂いを、そっと確かめた。恐怖はある。命の危険を感じている者の、鉄くさい緊張。けれど、あの饐えた嘘の匂いは、もう、ない。取り繕おうとする者特有の、酸い匂いも。この男は今、覚悟を決めて、本当のことを話そうとしている。それだけは、匂いが、はっきりと告げていた。
「あんたに婚約破棄を突きつけた、あの偽装香水」男は、アニエスを見た。「あれを注文したのは、頭巾の代理人だ。だが、その後ろにいた者を、あっしは知っている。使いが、うっかり漏らしたのさ。『大公家の御用だ、粗相は許されん』ってな」
部屋の空気が、張り詰めた。
「大公家の、御用……」
「間違いねえ。金の出所も、香の格も、全部、あの家のものだった」男は、震える手で、額の汗を拭った。「あっしは、ただの職人だ。言われた通りに、本物らしい偽物を作った。それが、あんた一人の人生を、めちゃくちゃにするなんて、思ってもみなかった。……すまねえ」
男は、深く頭を垂れた。その肩が、小刻みに震えている。金に目が眩んで、罪の片棒を担いだ。けれど、心の底では、ずっと呵責に苛まれてきたのだろう。良心と恐怖のあいだで、この男もまた、大公という怪物に、人生を歪められた一人だった。
「顔を、お上げください」アニエスは、静かに言った。「あなたを、責める気はありません。あなたも、あの方に、利用された。証言してくださること、それが、償いです」
「令嬢さん……」
男の目に、涙が滲んだ。追い詰められた者の酸い匂いが、少しだけ、和らいだ。
証言が、確定させた。婚約破棄の偽装を仕組んだのは、ベルトランの私情ではない。大公だった。あの夜、人前で突きつけられた理不尽の、本当の設計者が、今、はっきりと名指しされた。あの夜、泣き崩れることを期待されていた自分。その筋書きを書いた手が、ようやく、姿を現した。
アニエスは、静かに目を閉じた。
これで、すべてが、繋がった。婚約破棄の偽装、偽証、毒殺、暗殺、そして血統詐称。ばらばらに見えた事件は、たった一人の手が描いた、一枚の設計図だった。
その夜、工房主を安全な場所へ移したあと、アニエスとアルヴィスは、離宮の書斎で、事件の全容を並べ直した。
「大公の狙いは、二つで一つです」アニエスは、母の血の匂いの図を広げた。「一つは、リゼットのように、自分の血筋の者を、詐称の血で高位に潜り込ませ、継承に食い込ませること。もう一つは、それを見抜ける、唯一の存在を、消すこと」
「血を読む家」アルヴィスが、低く言った。「そなたの、母系だ」
「はい」アニエスは、図の上の、母の名を指でなぞった。「血の真贋を嗅ぎ分ける鼻がある限り、どれほど巧妙に血を偽っても、いつか暴かれる。だから大公は、まず母を消した。八年前に。そして今、その血を継ぐわたくしを、消そうとしている」
声にすると、その冷酷さが、いっそう際立った。母の死は、病ではなかった。血を読む家という、自分の生まれた家そのものが、大公にとって、代を跨いで抹殺すべき標的だったのだ。婚約破棄も、暗殺も、その長い計画の、一場面にすぎなかった。
恐怖が、背筋を這った。けれど、それと同時に、別の感情が、腹の底で、静かに火を灯した。
母が守ろうとしたもの。血を読む家が、代々担ってきた役目。それは、この国の継承の正統性を、血の偽りから守ることだった。母は、そのために命を落とした。ならば、自分が、その使命を継ぐ。恐怖に呑まれて逃げることは、母の死を、無駄にすることだった。
「殿下」アニエスは、顔を上げた。その目に、揺るぎない光があった。「これは、もう、わたくし個人の復讐ではありません。血を偽って王座を簒おうとする者から、この国の血の正統性を守る戦いです。母が、命を賭けて守ろうとしたものを、わたくしが、継ぎます」
アルヴィスは、しばらくアニエスを見つめていた。やがて、静かに頷いた。
「私も、同じだ。母の仇を討つだけではない。この国の王座に、偽りの血を座らせぬために。……共に、戦おう」
その言葉に、迷いはなかった。復讐に囚われた男が、憎しみだけで動いているのではない。この人は、憎しみさえも、大義のために、冷静に研ぎ澄ませている。感情に呑まれぬその強さが、アニエスには、頼もしかった。
二人の目的が、個人の因縁を超えて、一本に束ねられた。もはや、これは私怨ではない。国の正統性をめぐる、大公との、正面からの戦いだった。婚約破棄の夜、泣くまいと拳を握った小さな決意が、今、国の血の正統を守る、大きな戦いへと育っていた。
あとは、王を動かし、公式の血鑑定の場を開くのみ。だが、時間は、なかった。大公もまた、動いていた。ネリが薫街で拾ってきた噂によれば、大公は、甥の第一王子フェリクスを継承の第一位として、王家の中で既成事実を積み上げようとしているという。フェリクスの後ろ盾を固め、詐称の血を、正統の座へ据える。その仕上げに、大公は入っていた。
既成事実が固まってしまえば、たとえ後から詐称を暴いても、覆すのは至難になる。血鑑定の場を開くなら、その前でなければならない。
孤立無援では、勝てない。長いあいだ、たった一人で戦ってきた。けれど、もう独りではなかった。師が、騎士が、侍女が、そして氷の殿下がいる。かつて助けた人々もいる。
味方を、今こそ、結集させねばならなかった。




