第21話 十五年前の残り香を、香で甦らせる
封じられた旧離宮は、時が止まっていた。
十五年前、アルヴィスの母が毒に倒れた部屋。事件のあと、王命で閉ざされ、以来、誰も足を踏み入れていない。埃の積もった調度、色褪せた帳、乾いた花の残骸。窓の隙間から差す薄明かりの中で、すべてが、あの日のまま眠っていた。
アニエスは、供を最小限に、アルヴィスとともに、この部屋へ潜んでいた。
「ここが……母の、最期の部屋だ」アルヴィスの声が、常より低い。感情を殺すこの人が、それでも隠しきれない、古い痛みが滲んでいた。「九歳の私は、この扉の外にいた。中に、入れてもらえなかった」
アニエスは、彼の横顔を見た。かける言葉は見つからない。ただ、この人が長い年月、この閉ざされた扉の前で、独り立ち続けてきたのだと、思った。九歳の少年が、母の死の真相を知りたくても、扉の内側にすら入れてもらえなかった。その無力を鎧に変えて、氷になった。
埃の匂い。乾いた花の匂い。時に閉じ込められた部屋特有の、澱んだ空気。アニエスは、それらを一つずつ払いのけるように、意識を鼻の奥へ沈めていった。
部屋の中央で、目を閉じ、静かに息を整える。母の秘伝には、こうもあった。『焦るな。古い香は、臆病だ。急かせば、逃げる』。
十五年。ふつうなら、匂いなど、とうに消えている。けれど、母の秘伝には、こう記されていた。『古い残り香は、消えたのではなく、物に沈んでいる。呼び覚ませ』。
アニエスは、香料箱から取り出した数種の香料を、そっと空気に溶かした。母の技法。特定の匂いを「増幅し、固定する」調香。眠った香を、揺り起こす手立てだった。帳に、床に、褪せた寝台に、その香を丁寧に触れさせていく。
やがて、ゆっくりと、それは立ちのぼってきた。
甘く、金属くさく、花のような。あの毒の匂い。十五年の眠りから覚めて、微かに、けれど確かに、部屋に満ちていく。
息を、詰めた。間違いない。茶会の毒、母の記録香、そしてこの部屋の残り香。すべて、同じ手の癖。ここで、アルヴィスの母は、この毒で殺された。
「殿下」アニエスは、震える声で言った。「ここに、あの毒が。十五年経った今も、微かに残っています。あなたの母君は、病ではなく、間違いなく、あの毒で亡くなられた」
アルヴィスは、答えなかった。ただ、拳を、固く握りしめていた。その手の甲に、青い筋が浮いている。十五年、証拠なく抱えてきた疑いが、今、香という形で、目の前に立ち現れた。
「……ずっと」やがて、絞り出すような声が漏れた。「ずっと、私の思い込みかもしれないと、心のどこかで疑ってきた。母は本当に病で死んだのではないか、私が幼くて、香の記憶を歪めたのではないかと。だが、そなたの鼻が、それを晴らした」
アルヴィスは、褪せた寝台に、そっと手を触れた。母が最期に横たわった場所。その所作の静けさに、押し殺した哀しみのすべてが滲んでいた。アニエスは、彼が独りでその哀しみと向き合う時間を、黙って見守った。この部屋では、言葉より、沈黙のほうが、優しかった。
アニエスは、その残り香を、母の秘伝の技で香料に移し取った。揮発しやすい匂いを、樹脂に閉じ込め、固定する。指先は慎重に、息は細く。焦れば、せっかく呼び覚ました香が、また逃げてしまう。母の言葉を胸で唱えながら、一滴も無駄にせぬよう、樹脂に閉じ込めていった。
小さな瓶の中に、十五年前の毒の残り香が、封じ込められた。過去の殺人を、持ち運べる物証へと変える。ずっと「職人風情」と軽んじられてきた調香の技が、時を超えて、殺人を暴く証拠を、この手に握らせた。母が磨き、母が遺した技が、今、母を殺したかもしれない手を、追い詰める武器になっている。
次に二人は、人目を忍んで、王城の記録院へ回った。血統詐称の記録を辿るためだ。系譜を記した膨大な巻物が、棚を埋めている。この国が血統至上である証しのように、どの家がどの家と血を繋いできたか、何百年ぶんもの記録が、ここに眠っていた。
リゼットの偽られた血。乾いた、南の痩せた土地の匂い。その特徴を持つ血筋を、母の遺した「血の匂いの図」と、記録院の系譜を、一つずつ照らし合わせていく。アニエスが匂いの記憶で候補を絞り、アルヴィスが系譜を辿る。二人の手が、暗い記録院で、根気強く動いた。
やがて、一つの符合に、アニエスの指が止まった。
南の、乾いた血筋。それは、大公家の、遠い傍系に連なる家のものだった。血の匂いの図の上で、リゼットの血と、大公家の血が、細い、けれど確かな線で、繋がっている。
「殿下。リゼットの血は……大公の血筋に、近いのです」
アルヴィスの目が、鋭くなった。
「自分の血筋の者を、詐称の血で高位に潜り込ませ、継承に食い込ませる」低く、断じた。「そして、それを見抜ける血の鑑定家系を、潰す。……これが、大公の狙いか」
簒奪計画の核心が、輪郭を結んだ。血を偽り、王座を簒う。その邪魔になる血を読む家を、代を跨いで抹消する。恐ろしいほど冷徹な、設計図だった。
けれど、これらはまだ、断片にすぎない。物証として、大公と繋ぐには、公式の血鑑定が要る。リゼットの血を、公の場で、母の秘伝で鑑定する。それができて初めて、詐称は、言い逃れのできない真実になる。
離宮へ戻る帰り道、二人は集めた断片を並べ、勝利の条件を確かめ合った。
「王前で、リゼットの血を鑑定する」アニエスは言った。「母の秘伝の技で、大公の血筋との近さを示せば、詐称は証明できます。そして、この残り香の物証を添えれば、毒殺とも繋がる」
「あとは、その場を、開く力だ」アルヴィスが頷いた。「王を動かし、大公の妨害を越える。険しいが、道は、見えた」
勝利の条件は、はっきりした。あとは、その一点に、すべてを賭けるだけ。母の秘伝の技、封じた残り香、血の匂いの図。断片は、確かに、揃いつつあった。
だが、その夜。二人の手に、思いもよらぬ形で、婚約破棄から今日までの「すべてが大公の設計だった」という、決定的な証拠が、転がり込んでくることになる。消えたはずの、あの男の口から。




