第20話 読めない人の隣が、いちばん落ち着く
アルヴィスの離宮は、驚くほど静かだった。
暗殺未遂の翌日から、アニエスはここに匿われている。公爵邸にも、調香院にも、もう戻れない。命を狙われた身では、どこも安全ではなかった。氷の殿下の住まいという、宮廷でいちばん近寄りがたい場所が、今は、いちばん安全な避難所になっている。
書斎で、二人は反撃の策を練った。窓辺の卓に、母の香料箱が置かれている。危険を承知で、離宮へ運び込んだ、最後の切り札。
「王前の血鑑定を開くには、三つ、要る」アルヴィスが、指を折った。「王の裁可。複数調香師の立会。そして、動かぬ手順。この三つを、大公の妨害を越えて、揃えねばならん」
「王の裁可は、取れるのですか」
「私の後ろ盾では、正面から願い出ても、大公派に握り潰される」アルヴィスは、静かに言った。「だが、公妃の一件がある。そなたが毒杯から救った、あの公妃だ。あの方は、王の従妹。恩義を、感じておられる。あの方を通じて、王の耳に、直に届ける道がある」
アニエスは、目を見張った。あのとき、無礼を承知で毒杯を止めたことが、巡り巡って、王への細い道を開いている。善いことをして、それがいつか返ってくる。母が言っていた、そういう生き方が、今、確かな形になろうとしていた。
「勝ち筋は、一つ」アルヴィスの声に、揺るぎがなかった。「大公が制度を悪用して詐称を通す前に、こちらが制度で、詐称を証明する。制度の急所を、制度の最上位で突く。難しい。だが、道は、見えた」
「立会の調香師は、どうしましょう」アニエスは問うた。「大公派に通じた者が混じれば、鑑定は、内側から歪められます」
「バルテルミー主席と、彼が信を置く者だけを選ぶ」アルヴィスは、書付に印を入れた。「数は絞る。裏切りの余地を、なくす。手順は、そなたの母君の家に伝わる正式なやり方に則れば、後から難癖もつけられまい」
二人で、一つずつ、穴を潰していく。大公がどこから妨害してくるか、どの手順を狙って崩しにくるか。アニエスの鼻で読んだ「相手の癖」と、アルヴィスの政の知略が、噛み合っていく。氷の殿下と、令嬢調香師。宮廷では釣り合わぬと嗤われる二人が、今、誰よりも息の合った共犯者になっていた。
その日の午後、アニエスは一人、母の香料箱と向き合った。
蓋を開け、一つずつ、小瓶と道具を検分していく。血の匂いの図。血縁を香で読む技法のメモ。そして、箱の底の、隠し二重底に指をかけたとき、かすかな手応えがあった。
二重底の下から出てきたのは、小さな、古い香紙の束だった。母の字で、こう記されている。『血を読む家、秘伝。詐称を暴く鑑定法、ここに遺す』。
息を、呑んだ。
母は、遺していた。ただの技法ではない。詐称を、公式の場で覆すための、具体的な鑑定の手順を。近い血が分かち持つ匂いを、どう対照し、どう複数の立会人に示し、どう「言い逃れのできない形」にするか。血を読む家が、代々磨いてきた、その真髄を。
母は、知っていたのだ。いつか、詐称と戦う日が来ることを。血を偽って継承を簒おうとする者と、自分の血を継ぐ娘が、対峙する日が来ることを。だから、命を狙われながらも、この秘伝だけは、娘のために、隠して遺した。二重底の奥に、幼い娘がいつか気づくことを信じて。
香紙の一枚には、こんな走り書きもあった。『鑑定は、急いてはならぬ。焦れば、鼻は誤る。深く、静かに、三度確かめてから告げよ』。まるで、この日の娘に語りかけるような言葉だった。母の声が、字の向こうから聞こえてくるようで、アニエスは、しばらく動けなかった。
香紙を、そっと胸に抱いた。母の指の匂いが、まだ、かすかに残っている気がした。今度は、独りではない。ずっと、母を喪って独りきりで戦ってきたつもりだった。けれど、母は、こうして、娘のために道を遺していた。この手の中に、母がいる。それだけで、震えていた指が、静かに定まっていった。
夜、書斎に戻ると、アルヴィスが、まだ灯りの下にいた。地図と書付を広げ、鑑定の当日の警備の段取りを、一人で組み立てている。アニエスのために、眠りも削って。
「秘伝が、ありました」アニエスは、香紙を見せた。「母が、詐称を暴く鑑定法を、遺していました。これで、公式の場で、リゼットの血を、言い逃れのできない形で示せます」
アルヴィスが、顔を上げた。その灰色の瞳に、微かな光が差す。
「そうか」短い一言に、確かな安堵が滲んでいた。「……母君は、そなたに、道を遺したのだな」
二人は、しばらく、静かに向かい合っていた。灯りが、揺れる。危険を共にする日々の中で、この人との距離が、いつのまにか、ずいぶん近くなっていた。
ふと、アニエスは気づいた。この人の匂いは、今も、何も読めない。善意も、疲れも、痛みも。いつもなら、読めない相手は、怖い。信じていいか、疑うべきか、分からないから。
なのに、今は、怖くなかった。読めないのに、この人の隣が、いちばん落ち着く。言葉と、行動と、共に過ごした時間が、匂いの代わりに、この人を教えてくれていた。差し入れの夜食。静養の部屋。地位も名も賭けるという言葉。眠りを削って組む警備の段取り。香では読めなくても、この人が何をしてきたかは、全部、知っている。匂いよりも確かな何かで、アニエスは、この人を信じ始めていた。
「殿下」
「なんだ」
「……いえ」言いかけて、アニエスは、その先を呑み込んだ。まだ、言葉にする時ではない。すべてが決した、その後で。「おやすみなさい。あまり、無理をなさらず」
アルヴィスは、小さく頷いた。その口元が、ほんのわずか、緩んだように見えた。氷が、少しずつ、溶けていく。
切り札は、揃いつつあった。母の秘伝、アニエスの鼻、アルヴィスの王への細い道。あとは、母毒殺と血統詐称を、一本に繋ぐ決定的な証拠が、もう一つ。それさえあれば、大公の優雅な仮面を、公の場で、剥ぎ取れる。
それを求めて、二人は、危険を承知で、次の一歩を踏み出そうとしていた。窓の外では、初夏の夜が、静かに更けていく。決戦の日は、少しずつ、近づいていた。




