第19話 夜道に立つのは、香ではなく、殺意だった
その夜の帰り道、アニエスの鼻が捉えたのは、香でも、毒でもなかった。
人の汗。それも、極度に張り詰めた、殺意を孕んだ汗の匂い。獲物を待つ者が滲ませる、あの鉄くさい緊張。王城を出て、人けの絶えた夜道にさしかかったとき、闇の奥から、それは、はっきりと立ちのぼっていた。
足が、止まる。
一人ではない。二人、三人。前方の物陰と、背後の角に。囲まれている。
考えるより先に、体が動いた。アニエスは踵を返し、脇の細い路地へ駆け込んだ。石畳を蹴る自分の足音に、追ってくる複数の足音が重なる。心臓が、喉元で鳴っていた。夜気は冷たいのに、背中は汗で濡れている。
嗅ぎ分けられても、戦えない。
殺意の在り処は分かる。刃を持つ手の、汗の匂いも。どちらの角から誰が来るかも、鼻が先に告げてくれる。けれど、この鼻は、敵の居場所を教えてくれるだけで、その刃を止めてはくれない。逃げることはできても、退けることはできない。母から受け継いだ職能の、どうしようもない限界が、今、命の際で、剥き出しになっていた。有能なはずの鼻が、こんなときには、何の役にも立たない。
角を曲がり、また曲がる。けれど、追手は、匂いで先回りするアニエスよりも、地の利で勝っていた。じわじわと、逃げ道が塞がれていく。
路地の突き当たり。行き止まり。
振り返ると、闇の中に、三つの影が立っていた。目深に頭巾をかぶり、手には、鈍く光る刃。その体から立つのは、金で雇われた者特有の、乾いた汗。そして、その奥に、ぞっとするほど覚えのある、冷たい気配。あの、大公の纏う定紋香の残り香が、微かに、けれど確かに、彼らの衣に染みついていた。おそらく、大公家の者から直に指図を受けたのだ。だから、主の香が、移っている。
この者たちは、大公が放った。確信が、恐怖と一緒に、背筋を貫いた。
「動くな」影の一人が、低く言った。「痛みは、感じさせない。眠るように、済ませてやる」
毒ではなく、刃で。今度は、遠回しな醜聞でも、じわじわと締める追放でもない。直接、命を。大公は、ついに、そこまで踏み込んだ。
逃げ場は、ない。アニエスは壁を背に、乱れる呼吸を必死で抑えた。指先が、懐に忍ばせた小瓶を探る。母の教えた、護身のための刺激香。目や鼻を灼く強い香で、一瞬でも怯ませられれば、その隙に。けれど、三人を相手に、どこまで保つだろう。手のひらが、汗で滑った。
刃が、月のない空に、鈍く振り上げられた。
その瞬間、闇を裂いて、風が唸った。
金属のぶつかる甲高い音。影の一人が、呻いて崩れる。アニエスの前に、大柄な人影が割り込んでいた。抜き身の剣を構え、素早く二人目の刃を弾き、三人目の懐へ踏み込む。無駄のない、鍛え抜かれた動き。
「怪我はねえか、ラフォンテーヌ嬢!」
武骨な、率直な声。アルヴィスの護衛騎士、ロランだった。
「殿下が、あんたの帰りが遅いと、胸騒ぎがすると言ってな。……勘の鋭いお人だ。間に合った」
ロランの剣が閃くたび、襲撃者は追い詰められていく。形勢が変わったと見るや、影たちは舌打ちを残し、闇の奥へと退いていった。金で雇われた者は、命を賭けてまで、仕事を全うしはしない。
張り詰めていた膝から、力が抜けた。アニエスは、その場に、崩れ落ちそうになる。ロランが、素早く腕で支えた。厚い手のひらと、汗と鉄の匂い。荒っぽいが、確かな安心のある匂いだった。
「ありがとう、ございます」かすれた声で、礼を言う。「あの者たちの香に、大公家の紋の冷たさが、染みていました。あれは、大公の手の者です」
「分かってる」ロランの声が、硬くなった。「殿下も、そう睨んでる。だから俺を、あんたの帰り道に走らせた」ロランは、退いていった闇を睨んだ。「正直、驚いてる。あの御方が、ここまで露骨に動くとはな。もう、なりふり構っちゃいねえ。殺してでも、あんたを黙らせる気だ」
ロランに伴われ、アルヴィスの離宮の一室に匿われた。駆けつけたアルヴィスは、アニエスの無事を確かめると、常の静けさが嘘のように、押し殺した声を漏らした。
「私が、間に合わせた」それは、自分に言い聞かせるような響きだった。「だが、次はどうなるか、分からん。……そなたを、こんな目に遭わせて」
悔いるように、アルヴィスは目を伏せた。感情を殺してきたこの人が、隠しきれずに滲ませた、後悔の色。香では読めない。それでも、その沈黙が、雄弁だった。
アニエスは、震える手を、両手で包んだ。命を、狙われた。はっきりと、殺意を向けられた。優雅な微笑みの下に隠されていた牙が、ついに、剥き出しになった。恐ろしかった。けれど、隣にいるこの人の気配が、その恐怖を、辛うじて繋ぎ止めていた。
翌朝、匿われた一室に、意外な訪問者があった。
オーギュスト大公。供も連れず、優雅な微笑みを湛えて、まるで見舞いのように、静かに現れた。
「災難でしたな、ラフォンテーヌ嬢」その声は、どこまでも穏やかだった。「夜道は、物騒です。特に……余計なことに首を突っ込む者にとっては」
アニエスは、動けなかった。この男は、自分が刺客を放ったことを、隠しもしない。ただ、証拠の残らない言葉で、それを匂わせ、楽しんでいる。
「賢い娘だ。母君譲りの、良い鼻をお持ちだ」大公は、目を細めた。その目は、少しも笑っていない。「その鼻は、時に、嗅がずともよいものまで嗅ぐ。母君も、そうでした。……そして、若くして、儚くなられた。惜しいことです」
母の名を、また持ち出された。今度は、はっきりと、その死を仄めかしながら。母を殺したのは自分だと、この男は、証拠の残らぬ言葉で、告白している。そうして、娘を怯えさせて楽しんでいる。
アニエスは、拳を握りしめた。膝は震えているのに、その奥で、冷たい怒りが、静かに燃えていた。
「賢いなら、退き際も、心得ていようね」大公は、穏やかに続けた。「ご自分の身が、いちばん、大切でしょう。それに……お仕えの侍女や、肩入れなさる御方まで、巻き添えにしては、寝覚めが悪い」
ネリと、アルヴィス。二人の名を、暗に脅しに使われた。この男は、退かなければ、周りの者まで消すと言っている。
言い残して、大公は、悠然と去っていった。優雅な足音が、遠ざかっていく。その残り香の、底知れぬ冷たさが、部屋に、いつまでも留まっていた。
退けば、助かる。退かなければ、自分も、大切な者も、闇に葬られる。それが、明白な取引だった。
けれど、退けるはずが、なかった。母を殺した手を、側妃を殺した手を、これ以上、優雅に微笑ませておくわけには、いかなかった。




